2017年3月5日日曜日

全てはあいまいさと矛盾の中に

この気持ちを言葉にしたいと富に願う

しかしながら、言葉にしてしまえば、その気持ちが本当ではなかったように思う

この形を言葉にしようと試みる
しかしながら、言葉にしてしまえば、その形を完全に表現していないように感じる


ずっとかくれんぼしていたい。でも隠れたまんまでは本当に忘れ去られてしまう。
そして自分さえもかくれんぼしてた事を忘れてしまうのかもしれない。それはそれで幸せなのだろうか。


この人間と誠実に接したいと考える
しかしながら、その場しのぎの保身を試みてしまう。


嘘が嘘で嘘を覆っていく。真実が真実で真実を削っていく。その先にある形は何?
それは嘘?真実?それともその間の何か?



本当の事を話しつづけるのは難しい。本当の話は面白おかしくないから。
でも本当の事を話して面白い事がいいことなのかな。

2017年2月27日月曜日

時間が早すぎる

この一ヶ月本当に何もしてなくて、何もできてなくて、いろいろとチャンスをミスしてて、何にもうまくいってないように見えて、でもそれって自分がまったく何も努力していないだけで、でも何を努力するのかわかんなくて、そんなことは言い訳に過ぎなくて、多分目の前にあることを、目の前にある本を読めばいいだけだと思うのだけど、いろいろとだめで、だめって言って逃げてるだけで、本当に意味わかんなくて。

2017年2月19日日曜日

ああ

携帯を北海道の雪山においてきてしまった・・・

探したけどパウダースノーすぎて見つからなかった・・・


春になったら迎えに行こうかな・・・



もうすぐ電池が切れて、現在地情報もわからなくなるでしょう・・



なんか携帯を看取る気分だわ・・・

2017年2月11日土曜日

このblog

実はこのblog、高校生の時からやってるんだが、どうしてこうも無駄なことを公共空間に垂れ流すのがこんなにも好きなんだろう…

2017年2月10日金曜日

私の周りで悩んでいる人



 かなわないというエッセイを読んだ。
私の周りで悩んでいる人の多くの人が陥っている困難に、筆者も面しており、その困難を少しずつ克服しようとする部分が面白かった。

224ページから始まる、漫画家の先生とのカウンセリングのようなチャットのやり取りの部分である。

筆者は漫画家とのやり取りから、自分の生きづらさや子育ての不安が、自己肯定感のなさから生まれていることに気がついていく。
そしてその自己肯定感のなさは幼少期の母娘関係から生まれたと漫画家は分析していく。この世にいていいんだという根本的な自己に対する肯定感を母親から得られなかったのだと。


「自分を愛するように、他者を愛する」という言葉が本の中にあった気がする。


よく聞く言葉だけど初めて実感を伴っって理解できた気がする。

本ではインナーチャイルドによる自分の幼少期の振り返りなど興味深い(カウンセリング業界では当たり前なのかも)事象があるんだけど、まあいいです。


職業でもある自分の写真作品の良さが、最近、わからなくなってきた筆者を漫画家が諭して、
「あなたのよさはあなたが知っています。…あなたは自分の写真を全く信じていないので、コンテストや偉い人の評価がよければいい写真だ!とおもい、ダメ出しされればダメなんだ!と思うようなもんです。評価が低くてもいいものはいい!そうこっそり思ってることが自信です。…あなたは目の前の人が喜ぶ写真だけに価値があるんだといってるわけです。」

あーそうですね。

自信か…

私はそれなりに自己肯定感があるほうだと思うが、すぐに他人や情報に影響される。そして目の前の人を喜ばせようとして二枚舌のようなことをしてしまったりもする。


2017年1月26日木曜日

気にしないことは軽視していること?

私が最近、ある質問された時に
「私は気にしないよ」と軽い気持ちで言ってしまい、あ、これってよくないかも?とふと感じることが度々あった。

I don't mind(かまいませんよ)  とI don't care(どうでもいいよ)を注意して使わなければと思った、と言えば良いだろうか。

つまり、私の言い方では相手が「どうでもいいよ」と聞こえてしまったかも、と恐怖を感じたのである。私自身もその事柄を尊重してはいるのだが、「ある意味」どうでもいいことだと常々感じているのでつい、食い気味に「私は気にしないよ」と即答してしまい、なんか感じ悪かったなと思ったのである。

 抽象的に書いていると大変分かりにくいので、個人がわからない程度に具体的に書いておこう。というか以下のような場面に3度くらい直面していて、どれもそういう対応してしまったのでなんか個人的に腑が落ちないのである。



ゲイの友人に「そういえば俺ゲイなんだけど」と言われた時である。つまりカミングアウトされた時ってことかな?

個人的な心情を詳しく描写すれば、友人のことはゲイでもそうでなくても友人だし。個人的にも異性愛至上主義者ではない、のでそういう本質的な次元においても相手がどんな対象を性的に嗜好してもOKと思ってる。

ここまで書くとまた、「あやしいな」と思ってしまう。 なんだ「OKと思ってる」って。
 とんだ偉い奴だなお前は。

BTW
自分があまりに気にしていない事柄(相手のsexual orientation)に対して食い気味に「僕はどっちでもかまわないよ」といってしまった事に後悔している。なぜなら相手にとってはその問題が(カミングアウトするか否か)とても重要で大事な判断だったかもしれないから。

ここまで書いて言い訳みたいな事を書いておくと、私はマジョリティーの中にいる無関心で無知なマジョリティー側の人間ではないと思っている。例えば日本人がマジョリティーの世界(日本)で行きている日本人は自身の日本人性に無自覚だといったような事(日本人を異性愛に置き換えてもよい)。まあ思ってるだけだけど。

2017年1月8日日曜日

そう、それはちょうど季節のよう

そう、それはちょうど季節のよう。


春、一斉に芽吹くとき、すべてが連鎖的、加速度的に動く。



冬、世界は未だ見ぬ春のため静まりかえり、彼は一人だけ遺されたかのように感じる。



でも、確実に時は進む。


そして春が来る。

春は嫌いだ

2016年11月24日木曜日

上橋菜穂子「精霊の木」を読んで

上橋菜穂子のファンタジー処女作、精霊の木を読んだ。

1989年にこれだけ、政治的にバランスをとった植民地主義批判的な物語を、しかも物語として完成された形で書けるのはすごい!とまず思った。

読みながらずっと考えていたのはやはりアボリジニの同化政策だし、実際にオーストリアで行われた事実をもとに物語が構築されているのがとてもよくわかる。

あとがきで筆者が指摘しているように、この物語は植民地支配の結果滅ぼされた人々をヒーローとして、主人公として描いた作品である。

ただ、この物語はそんな政治性をごり押ししてくるのではなく、家族愛や思春期の青年の心の葛藤も同時に描き、エンターテイメントや文学として成立しているのである。すごい。

物語の締めくくりも妙にリアリスティック、つまり、裁判沙汰になっていき、社会がどのようにこの問題をとらえるのかを問う形で幕が降りる。

児童書に綿菓子のような甘い終わりかたを望む人にとっては、気に入らない終わりかたかも知れないけど、私にとってはすごくしっくり来る終わり方だった。

ただ一日たって考えると、

2016年11月17日木曜日

ユリシーズの瞳

どうにもやりきれなくて、映画を観た後、サルミアッキ入りのウォッカを一気に飲み干した。買ってから、もう何年も経っているせいか味が変わってる気がする。
口の中はサルミアッキ独特の刺激臭と少しのあまさで充満する。胃の奥底から食道にかけてまるで炎に焼かれているように熱い。

ウォッカが合う映画だ。




旅なんて何も得られない


でも人間は旅を続ける。


それは愛する人に、旅の話を聞かせるため



生き残ったものだけが語ることを許される。生き残ったものは常に多くの別れと共にある。人一倍数多くの。





今日はすごく文学的インプットが多い日だ。午後に三島由紀夫の「愛の処刑」を読み、あまりの生々しさに吐きそうになり、そのまま、ユリシーズの瞳を観てしまった。観てしまったというべきだと思う。3時間もあるのに。そしてこれから邦画を観に行こうとしている。本当は観に行きたくない。ユリシーズの瞳(私は「オデュッセウスのまなざし」と訳したい)の余韻や考えなければいけないことを忘れてしまいそうだから。でもなぜか、私は映画館に行ってしまう気がする。今日はそんな日だ。

2016年11月11日金曜日

人間ってうまくできてんな

宇多田ヒカルが、亡くなった母のことを歌った、「花束を君に」をやらなきゃいけないレポートを前に聞いていたら、ブログのこの記事をつい読み返した。

筆不精
https://ukihoku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

これは僕の父が亡くなった時に書いた文章である。
この記事を読むと、2012年の11月に亡くなったのだなということがわかる。

不幸は蜜の味、幸せは努力 
https://ukihoku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

そしてこちらは、闘病中の父に説教するつもりで書いた記事である。全く偉そうだ。いまだったらこんなこと書けない。自分も弱いことをほとほと理解したから。

はっきり言って、宇多田ヒカルのように父のことを美化して回想することは全くできないけれども、4年経って、このころの自分をようやく客観視できるようになった気がする。上の文章を見てもわかるように当時の自分は本当に荒々しく、現実を正視した気になって全く何も見えていない。

ある映画をみて、死にゆく人はどれだけ強い人でも、生きたいと願うのかもしれない。それこそが人間らしさなのかも、そして現世への愛なのかもしれないと感じた。そんな風に感じるのは僕にとってとても特殊なことだ。

今までの僕は死ぬことなんて当たり前で、特に悲しくもなければ、名残惜しくなる必要なんてないものだと、妙に達観していた。いまでも、別にいつ死んでも変わらないし、「明日君は死ぬ」と言われても粛々と受け入れられるような気がする。しかし、「愛」というものがもしあるとしたら、現実世界においてそれを感じることがあるとすれば、死んでしまうことを悲しく感じられるのかもしれないとも思う。死とはすなわち、愛せなくなることだから。


その点、上記の映画はラストシーンにおいて、死んでも人を愛し続けることが可能だということを示してくれたように思う。救いを与えたのだ。


でも、それってどうなんだろう?


さあ、あしたの発表レジュメを書かなくては。現在0ワード。





2016年11月7日月曜日

博士課程には進まないほうがいいと思う理由

最近まったく研究活動をしていない。こんな状況で修士を修了できるかさえ怪しい。
というか今のままだとできないだろう。はあ。


今一番博士課程に行ってはいけないなと思う理由の一つは、研究したいこれといったことがないからだ。

ただでさえいばらの道である研究者になろうとするなら、なにかしら譲れないもの、どうしても研究したいことがあるべきだと思うし、そういったことがなければ、続いていかないだろう。


そうだからといって、就職するのだろうか?消去法的に?それもまた違うだろう。ただ、私のしたいことというか、得意なことってなんだろう。まあ即答できるのは寝ることである。




2016年10月27日木曜日

lonely but not alone

なんのためにここにいるのか、どこに行こうとしているのか、わからない。


そんなの多分わからないんだと思う。


生きていくのって本当に孤独で、どうしようもなく悲しくて、そんなもんだね。



ゴッホは自殺して、ゴーギャンは南の果ての島で死んでしまう。



たぶん、自分の心情のせいなんだけど、ゴッホの書くゴーギャンの椅子に心をつかまれてしまった。そこに座っている人をその人を介さずに椅子だけを描く。

椅子についてはこちらを
https://g.co/kgs/iUlsqC


どう考えてもゴッホって精神というか、感覚?が、普通ではないと思う。私はとても好きなんだけど。
そんなゴッホがアルルに芸術家の桃源郷を作ろうとして、パリの友人に手紙を送るけど、反応してくれたのはゴーギャンだけだった。実際来たのもゴーギャンだけ。


私が手紙を送ったら(そんなことたぶんないけど)来てくれる人がいるのだろうか。少なくとも、手紙が送られてきたら、行く人にはなりたい。


僕は最近とても反省している。僕の方を向いて欲しいから人に対して優しくしてるんじゃなかろうか。べつにそれを反省する必要はないと思う。人間って多かれ少なかれそういうものだから。でもなぜか、罪悪感を覚えてしまうのはきっと、人に対して後ろめたいことをしているような気が常にあるから。

「友達」が多い人はすごいなと思ってしまう。私にはそんな多くの人間関係のメンテナンスはできないから。かといって少なくてもできないんだけど。


でもきっと、なんだかわからないけど、いざという時頼れるかな?と思える他人が私と繋がってくれているのは、自分勝手で自立してない私には暖かい幻想だ。


Amici in rebus adversis cognoscuntur.







最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。
みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。

あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。
行く前はすごく気が重かった。
嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。
自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。


完全に執着していないか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。


それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?
だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。
しかしながら、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。

2016年10月23日日曜日

最近ゴロゴロしすぎた

のでがんばりますうこれから。
そうこれから


2016年10月19日水曜日

初心とは

初心忘るるべからずとはよく言ったものだ。
今、自分はなにがしたいのだろう
ということで恒例、自分の昔のblogを読んでみよう!恥ずかしいを通りすぎて面白い投稿だったのでシェアするね。
以下自分のblogから引用

2016年10月13日木曜日

東京旅行で感じたこと

最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。

みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。



あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。

会いに行く前はすごく気が重かった。

嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。

自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。

完全にそうではなかったか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。

それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?

だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。


しかし、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。





2016年10月11日火曜日

斜陽を読んで

太宰治の斜陽をよんで、こんなに激しい母への思いを女性は抱くのだろうか?とふと不思議に思った。斜陽の主人公はこんな風に思っている。弟が私よりも愛されて苦しい、母親が死んでしまうのが嫌だ、と同時に私の存在自体が母親を死に至らしめているのではないか。

一時期はこれって単なる太宰さんの母親を愛する気持ちを主人公に投影しただけではなかろうかと単純化しすぎて考えていた。

しかも私の周りは、母親に対抗意識を持ったり、憎んだり、特に感情がなかったりする、強い?自立した?女性ばかりなので、そんな風に思ったのかもしれない。

でも、「花束を君に」の歌詞を見て、あ、女性とか男性とか関係ないかもと思った。
この歌詞でも、言葉が足りないほど愛しく、最後に抱きしめてほしかった母への思いが綴られている。

まあ、私自身も母親へそこまでの愛はない(と思ってる)のでわからなかったのかもしれない。

そして、斜陽は怒涛の結末を迎える。女性にしかできない方法で終結するのである。
あれってそうするしかなかったのだろうか。それは時代的に?それとも現代でも?

いや、そうするしかなかったのだと思う。

本当に男という生き物は儚く無意味で自分勝手だなと思わされる

2016年10月7日金曜日

どうすればいいかわからない

まず、久しぶりの生ビールが美味しすぎていろいろと無作法な振る舞い、生意気な口を叩いてしまってすみません…絶対このblogにかいても通じないんだけど、ま、いいです。

本当にいろんなことへのリスペクトが足りない。人類学を少しでも学んだものとしてどうかと思う。ほんとやだ。

この失礼な態度、世の中なめてる態度をどうにかしていきたい。

やりたいことなんかない空洞人間なんですが、そういう人が絶対に入ってはならない迷宮に入り込んでしまった…気がする。

とりあえず、目の前にあるフィールドノートとやらを開かなくてはならない。そこから始まるのか。

どうなんだ。

そんなことはどうでもいいが、とにかくなめ腐った自らの態度を改めなければならない。こんなところに駄文を書き連ねてる暇があったら心の底から反省しろよよ自分に言いたい。


勉強するしかないのかな。勉強原理主義のような気がするが。

良心はどこにあるのか。

京都に戻りました

京都はまだ暑いです。
いろんな人に気安く話しかけてしまう、帰国者あるある現象がおきております。