2023年11月4日土曜日

痛みに対して鈍い私

私は痛みに対して鈍い。虫刺されもあまり痒いと感じないし、親知らずも歯医者が驚く段階になるまで、痛みを感じず抜くのが少し遅れた。交通事故にあった時も一週間足らずで普通の生活を送れるほどになってしまった。

肩こりなどで整体に行く時も「なぜこれほどになるまで…」と言われたりもする。これまでは痛みを感じないことは便利だとさえ思っていたが、何かを失っていると最近思い知った。

自分の痛みに鈍感だと、他者の痛みにも鈍感になってしまう。一番身近な自然である体に鈍感だと、もっと大きな自然にも鈍感になってしまう。どんどん言葉や概念が優位な活動になっていってしまう。それは、私にとっては不本意だ。

でもなぜ、痛みに鈍感になってしまったのだろう。子供の頃はちょっとやそっとのことで泣いていたはずなのだ。『体の知性を取り戻す』 という本に少しヒントがありそうだった。


決まり切ったメッセージを実行する。それが人生を送ることだ。そういう考えを疑いもしなくなっている暮らしとは、実のところ頭が思い描くイメージの枠の中に体を追い込むことでしかない。その結果、体はどんどん強張っていく。頭と体のあいだで自分が板挟みになり、やがては緊張の度合いの高まった体として日常を送る。(37−38)

感じている違和をそのまま出すと奇矯な人だと思われるので、できるだけ感じないようにして過ごすことに決めた。センサーを眠らせ、スイッチを切るように。(53)

我慢すればするほど正しいし、努力している証だという倒錯した世界に入っていくと、体の声が聴こえなくなる。(61)


私はおかしな(クイアなと言ってもいいかもしれない)自分を否定されたくない気持ちが強く、その場その場の主流派が発するメッセージをあたかも自分のメッセージかのように思い込み、それに体が拒否反応を示したとしてもそれを感じるセンサーを切ることで体を従えるトレーニングをずっとやってきたように思う。

その結果、悲しみは一年遅れてやってきて、怒りは感じず、痛みに鈍い体になってしまっていた。自分が鈍いだけなら、必ずしも変える必要はないのかもしれない。鈍く何も感じない怠惰な都会人として生を全うするやり方もある。

しかし、それでは人を傷つけてしまう。大切に思う人こそ、近くにいる人こそ、自分の鈍さによって傷つけてしまう。


何かがうまくいかないとき、「だからダメなのだ」「だから向上しなくてはいけない」と思いを新たにするだろう。これはいまの自分を否定するということだ。そのことで確実に自分が見えなくなる。(138)

身体で考えられない自分を変えなくては!と思っていたところで、著者の尹さんは諌めてくる。「〜しなければならない」「〜するべきだ」ではなく、いまの自分の身体に生起していることを見よと。

頑固な考えは一方向に進むことしか念頭になく、転身さえすればどこへでも進めるのだという自由を忘れている。端的に言えば、そこには余裕がないのだ。余裕がないのは楽しくない。思考は遊びがないとうまく転がっていかない。(154-155)


私は比較的柔軟な人間だと思い込んでいたが、最近長年の友人に「あなたは頑固だ」と直球で言われた。私は他者から何かを言われなければ気がつけない、それほどに頑固なのだろう。

こんなことを考えつつ、本日訪れた富士山麓で不思議な人と出会った。彼とエーリッヒフロムの愛について語ったり、パットメセニーのことや、頭ではなく身体から知っていくことの重要性を語り合うことができた。ここしばらく、ざわめいていた心の海に凪の時間がようやく訪れた気がする。体と感覚を開いておけば、適切な場とタイミングに導かれていく。

彼は「エネルギーを循環させるためには、場を捉えよ」と言って去っていった。





引用:尹雄大『体の知性を取り戻す』 

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