変えられていくという感覚はどこから来るのか。
認知認識行動行為
茹でガエルの例を出すまでもなく、人は変化にはなかなか気がつかない
変化とは事後的に認知可能な事象である
ただこの、今組み替えられているという感覚はなんだろう。
構成されているブロックは同じであるが、配列が変わる。
配列が変わることで関係性が変わる。
変えられていくという感覚はどこから来るのか。
認知認識行動行為
茹でガエルの例を出すまでもなく、人は変化にはなかなか気がつかない
変化とは事後的に認知可能な事象である
ただこの、今組み替えられているという感覚はなんだろう。
構成されているブロックは同じであるが、配列が変わる。
配列が変わることで関係性が変わる。
からだの真ん中から溢れ出るこの感情は何か。既存の概念や言葉では自分にとって納得できないから、そういうことはしたくない。
言語化することは、混沌とした世界のある側面を切り取り、概念を固定化してしまうことではあるが、言語化することにより、他者に伝達可能にし個別固有の状況を「ひらく」ことができる。固有の状況をひらいていくことは、「個人的」とも捉えられれがちな葛藤や憤りを共有可能にし、発信者や同じ思いを持つ他者が世界を肯定することに役立つ。
握手をした時に感じる信頼、抱擁の時に感じる安心感、接吻の時に感じる幸福。これらはどれも皮膚に直接触れ合うことによって何かを伝え合っているともとらえることができる。しかし、最近私が感じているのは「アンロック」されるという感覚である。
皮膚に触れ合うことによって、環境や状況に埋め込まれた感情を感じることが可能になる。それらの感情はすでに存在しているのかもしれないが、鍵がなければその感情を知覚することができない。人は環境や社会的文脈、その人が持つ独自の文脈によって固有の鍵を持っている。その鍵が受け手である自分の鍵穴に適合した時、からだの中に入っていた感情が溢れ出てくる。
他者に触発され生じる感情は、言語にとどめておかなければ、その一瞬の出来事として忘れ去れてしまう。同じ感情になることは二度とないはずなのに。
漫然と過ごしているとこぼれ落ち、ないことになってしまう、そのようなとても個人的な経験や感情をひらくために、小説家や人類学者、アーティストは存在しているのだと思う。