2016年11月11日金曜日

人間ってうまくできてんな

宇多田ヒカルが、亡くなった母のことを歌った、「花束を君に」をやらなきゃいけないレポートを前に聞いていたら、ブログのこの記事をつい読み返した。

筆不精
https://ukihoku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

これは僕の父が亡くなった時に書いた文章である。
この記事を読むと、2012年の11月に亡くなったのだなということがわかる。

不幸は蜜の味、幸せは努力 
https://ukihoku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

そしてこちらは、闘病中の父に説教するつもりで書いた記事である。全く偉そうだ。いまだったらこんなこと書けない。自分も弱いことをほとほと理解したから。

はっきり言って、宇多田ヒカルのように父のことを美化して回想することは全くできないけれども、4年経って、このころの自分をようやく客観視できるようになった気がする。上の文章を見てもわかるように当時の自分は本当に荒々しく、現実を正視した気になって全く何も見えていない。

ある映画をみて、死にゆく人はどれだけ強い人でも、生きたいと願うのかもしれない。それこそが人間らしさなのかも、そして現世への愛なのかもしれないと感じた。そんな風に感じるのは僕にとってとても特殊なことだ。

今までの僕は死ぬことなんて当たり前で、特に悲しくもなければ、名残惜しくなる必要なんてないものだと、妙に達観していた。いまでも、別にいつ死んでも変わらないし、「明日君は死ぬ」と言われても粛々と受け入れられるような気がする。しかし、「愛」というものがもしあるとしたら、現実世界においてそれを感じることがあるとすれば、死んでしまうことを悲しく感じられるのかもしれないとも思う。死とはすなわち、愛せなくなることだから。


その点、上記の映画はラストシーンにおいて、死んでも人を愛し続けることが可能だということを示してくれたように思う。救いを与えたのだ。


でも、それってどうなんだろう?


さあ、あしたの発表レジュメを書かなくては。現在0ワード。





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