2016年11月24日木曜日

上橋菜穂子「精霊の木」を読んで

上橋菜穂子のファンタジー処女作、精霊の木を読んだ。

1989年にこれだけ、政治的にバランスをとった植民地主義批判的な物語を、しかも物語として完成された形で書けるのはすごい!とまず思った。

読みながらずっと考えていたのはやはりアボリジニの同化政策だし、実際にオーストリアで行われた事実をもとに物語が構築されているのがとてもよくわかる。

あとがきで筆者が指摘しているように、この物語は植民地支配の結果滅ぼされた人々をヒーローとして、主人公として描いた作品である。

ただ、この物語はそんな政治性をごり押ししてくるのではなく、家族愛や思春期の青年の心の葛藤も同時に描き、エンターテイメントや文学として成立しているのである。すごい。

物語の締めくくりも妙にリアリスティック、つまり、裁判沙汰になっていき、社会がどのようにこの問題をとらえるのかを問う形で幕が降りる。

児童書に綿菓子のような甘い終わりかたを望む人にとっては、気に入らない終わりかたかも知れないけど、私にとってはすごくしっくり来る終わり方だった。

ただ一日たって考えると、

2016年11月17日木曜日

ユリシーズの瞳

どうにもやりきれなくて、映画を観た後、サルミアッキ入りのウォッカを一気に飲み干した。買ってから、もう何年も経っているせいか味が変わってる気がする。
口の中はサルミアッキ独特の刺激臭と少しのあまさで充満する。胃の奥底から食道にかけてまるで炎に焼かれているように熱い。

ウォッカが合う映画だ。




旅なんて何も得られない


でも人間は旅を続ける。


それは愛する人に、旅の話を聞かせるため



生き残ったものだけが語ることを許される。生き残ったものは常に多くの別れと共にある。人一倍数多くの。





今日はすごく文学的インプットが多い日だ。午後に三島由紀夫の「愛の処刑」を読み、あまりの生々しさに吐きそうになり、そのまま、ユリシーズの瞳を観てしまった。観てしまったというべきだと思う。3時間もあるのに。そしてこれから邦画を観に行こうとしている。本当は観に行きたくない。ユリシーズの瞳(私は「オデュッセウスのまなざし」と訳したい)の余韻や考えなければいけないことを忘れてしまいそうだから。でもなぜか、私は映画館に行ってしまう気がする。今日はそんな日だ。

2016年11月11日金曜日

人間ってうまくできてんな

宇多田ヒカルが、亡くなった母のことを歌った、「花束を君に」をやらなきゃいけないレポートを前に聞いていたら、ブログのこの記事をつい読み返した。

筆不精
https://ukihoku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

これは僕の父が亡くなった時に書いた文章である。
この記事を読むと、2012年の11月に亡くなったのだなということがわかる。

不幸は蜜の味、幸せは努力 
https://ukihoku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

そしてこちらは、闘病中の父に説教するつもりで書いた記事である。全く偉そうだ。いまだったらこんなこと書けない。自分も弱いことをほとほと理解したから。

はっきり言って、宇多田ヒカルのように父のことを美化して回想することは全くできないけれども、4年経って、このころの自分をようやく客観視できるようになった気がする。上の文章を見てもわかるように当時の自分は本当に荒々しく、現実を正視した気になって全く何も見えていない。

ある映画をみて、死にゆく人はどれだけ強い人でも、生きたいと願うのかもしれない。それこそが人間らしさなのかも、そして現世への愛なのかもしれないと感じた。そんな風に感じるのは僕にとってとても特殊なことだ。

今までの僕は死ぬことなんて当たり前で、特に悲しくもなければ、名残惜しくなる必要なんてないものだと、妙に達観していた。いまでも、別にいつ死んでも変わらないし、「明日君は死ぬ」と言われても粛々と受け入れられるような気がする。しかし、「愛」というものがもしあるとしたら、現実世界においてそれを感じることがあるとすれば、死んでしまうことを悲しく感じられるのかもしれないとも思う。死とはすなわち、愛せなくなることだから。


その点、上記の映画はラストシーンにおいて、死んでも人を愛し続けることが可能だということを示してくれたように思う。救いを与えたのだ。


でも、それってどうなんだろう?


さあ、あしたの発表レジュメを書かなくては。現在0ワード。





2016年11月7日月曜日

博士課程には進まないほうがいいと思う理由

最近まったく研究活動をしていない。こんな状況で修士を修了できるかさえ怪しい。
というか今のままだとできないだろう。はあ。


今一番博士課程に行ってはいけないなと思う理由の一つは、研究したいこれといったことがないからだ。

ただでさえいばらの道である研究者になろうとするなら、なにかしら譲れないもの、どうしても研究したいことがあるべきだと思うし、そういったことがなければ、続いていかないだろう。


そうだからといって、就職するのだろうか?消去法的に?それもまた違うだろう。ただ、私のしたいことというか、得意なことってなんだろう。まあ即答できるのは寝ることである。