2016年10月27日木曜日

lonely but not alone

なんのためにここにいるのか、どこに行こうとしているのか、わからない。


そんなの多分わからないんだと思う。


生きていくのって本当に孤独で、どうしようもなく悲しくて、そんなもんだね。



ゴッホは自殺して、ゴーギャンは南の果ての島で死んでしまう。



たぶん、自分の心情のせいなんだけど、ゴッホの書くゴーギャンの椅子に心をつかまれてしまった。そこに座っている人をその人を介さずに椅子だけを描く。

椅子についてはこちらを
https://g.co/kgs/iUlsqC


どう考えてもゴッホって精神というか、感覚?が、普通ではないと思う。私はとても好きなんだけど。
そんなゴッホがアルルに芸術家の桃源郷を作ろうとして、パリの友人に手紙を送るけど、反応してくれたのはゴーギャンだけだった。実際来たのもゴーギャンだけ。


私が手紙を送ったら(そんなことたぶんないけど)来てくれる人がいるのだろうか。少なくとも、手紙が送られてきたら、行く人にはなりたい。


僕は最近とても反省している。僕の方を向いて欲しいから人に対して優しくしてるんじゃなかろうか。べつにそれを反省する必要はないと思う。人間って多かれ少なかれそういうものだから。でもなぜか、罪悪感を覚えてしまうのはきっと、人に対して後ろめたいことをしているような気が常にあるから。

「友達」が多い人はすごいなと思ってしまう。私にはそんな多くの人間関係のメンテナンスはできないから。かといって少なくてもできないんだけど。


でもきっと、なんだかわからないけど、いざという時頼れるかな?と思える他人が私と繋がってくれているのは、自分勝手で自立してない私には暖かい幻想だ。


Amici in rebus adversis cognoscuntur.







最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。
みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。

あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。
行く前はすごく気が重かった。
嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。
自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。


完全に執着していないか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。


それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?
だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。
しかしながら、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。

2016年10月23日日曜日

2016年10月19日水曜日

初心とは

初心忘るるべからずとはよく言ったものだ。
今、自分はなにがしたいのだろう
ということで恒例、自分の昔のblogを読んでみよう!恥ずかしいを通りすぎて面白い投稿だったのでシェアするね。
以下自分のblogから引用

2016年10月13日木曜日

東京旅行で感じたこと

最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。

みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。



あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。

会いに行く前はすごく気が重かった。

嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。

自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。

完全にそうではなかったか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。

それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?

だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。


しかし、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。





2016年10月11日火曜日

斜陽を読んで

太宰治の斜陽をよんで、こんなに激しい母への思いを女性は抱くのだろうか?とふと不思議に思った。斜陽の主人公はこんな風に思っている。弟が私よりも愛されて苦しい、母親が死んでしまうのが嫌だ、と同時に私の存在自体が母親を死に至らしめているのではないか。

一時期はこれって単なる太宰さんの母親を愛する気持ちを主人公に投影しただけではなかろうかと単純化しすぎて考えていた。

しかも私の周りは、母親に対抗意識を持ったり、憎んだり、特に感情がなかったりする、強い?自立した?女性ばかりなので、そんな風に思ったのかもしれない。

でも、「花束を君に」の歌詞を見て、あ、女性とか男性とか関係ないかもと思った。
この歌詞でも、言葉が足りないほど愛しく、最後に抱きしめてほしかった母への思いが綴られている。

まあ、私自身も母親へそこまでの愛はない(と思ってる)のでわからなかったのかもしれない。

そして、斜陽は怒涛の結末を迎える。女性にしかできない方法で終結するのである。
あれってそうするしかなかったのだろうか。それは時代的に?それとも現代でも?

いや、そうするしかなかったのだと思う。

本当に男という生き物は儚く無意味で自分勝手だなと思わされる

2016年10月7日金曜日

どうすればいいかわからない

まず、久しぶりの生ビールが美味しすぎていろいろと無作法な振る舞い、生意気な口を叩いてしまってすみません…絶対このblogにかいても通じないんだけど、ま、いいです。

本当にいろんなことへのリスペクトが足りない。人類学を少しでも学んだものとしてどうかと思う。ほんとやだ。

この失礼な態度、世の中なめてる態度をどうにかしていきたい。

やりたいことなんかない空洞人間なんですが、そういう人が絶対に入ってはならない迷宮に入り込んでしまった…気がする。

とりあえず、目の前にあるフィールドノートとやらを開かなくてはならない。そこから始まるのか。

どうなんだ。

そんなことはどうでもいいが、とにかくなめ腐った自らの態度を改めなければならない。こんなところに駄文を書き連ねてる暇があったら心の底から反省しろよよ自分に言いたい。


勉強するしかないのかな。勉強原理主義のような気がするが。

良心はどこにあるのか。

京都に戻りました

京都はまだ暑いです。
いろんな人に気安く話しかけてしまう、帰国者あるある現象がおきております。