2016年1月23日土曜日

くう

各方面すみません…私は先程から虚しさに人生の意味を問うフェーズに入ってしまいました…(意味不明…)
もう布団から出られません。一生出られないかも。もう嫌です。外の世界は冷たくて寒い。でも、内側だって生ぬるいだけ。

2016年1月7日木曜日

寝れない夜


寝れない夜 

君も同じく窓辺にいるだろうか 

それともぐっすり寝ているだろうか

静かにおもうにとどめておこう

きっとそれが一番よいのだ

2016年1月3日日曜日

アゴタ・クリストフとトーベ・ヤンソン


アゴタ・クリストフの代表作『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』を読んだ。どの本も友人から借りて読んだ。そして思い出したのが、トーベヤンソンの『誠実な詐欺師』だ。なぜなのか考えながら読書感想文を書こうと思う。










まず、『悪童日記』では少年達の感情を排した文章から、痛み、欲、愛、感情といったものが、静かに淡々と描かれていた。文体は静かで平坦なのに、読み手は感情や欲などを強烈に感じるという、面白い読書体験だった。

あらすじをちょろっと書くと(あんまり役には立たないと思うが)、首都の街である程度豊かに育った双子は戦争の激化にともない、母の実家のある田舎へ疎開する。おばあちゃんの家に疎開した双子の「ぼくら」が事実だけを大きなノートに書きつづけることを自分たちで決め、日々の出来事を書き綴っていく…

って感じ。読むのが苦手な人は映画もあるんだけど、映画はこの物語にとってとても重要な、性的なシーンとか残虐な行為とかが大幅にカットしている(勘のいい人ならわかると思うけど)ので、ぜひ映画をみた後に小説を読んでほしいと思う。



そんなことはともかく、感想文を書いてるんだったね。


悪童日記にでてくる、双子は頭が良くて、正論で、まっすぐすぎて、おばあちゃんが「悪魔の子!」と叫びたくなる気持ちも良く分かる。彼らは強くなるために様々な訓練を行う。彼らは痛みに慣れれるために、双方の体を疲れ果てるまでベルトで鞭打ち、泣かないようにする。精神的に強くなるために、汚い言葉で罵り合う(それは彼らが普段、街の人から投げかけられる言葉だ)。優しい言葉でいっぱいの母の手紙を燃やす。空腹に耐えるため三日間断食する。彼らは痛み、つらさ、弱さ、飢えに対処するために、自らを訓練し乗り越えようとしていく…僕には、その行為がとてもまっすぐで真摯、美しいとさえ思えた。そうやって様々なことに慣れ、強くなっていく双子はしたたかに戦時下を生き抜いていく。


こういった、自分で自分を痛めつけることで慣れて強くなることは、一見不健全なやり方だろう。でも「慣れる」ことでしか乗り切れないのが、戦時下であり、そこは極限状態だったんだなと理解できる。そして僕には、現代のぬるま湯の中で生きている僕には、真面目に生きぬこうとなんでもする双子をかっこいい、美しいと思ってしまう。「しまう」と書いたのは、この文章を書いている僕は、戦時下にも極限状態にもいない無責任な存在だからだ。そんな無責任な奴が「美しい」とか言っていいのだろうか。まあそんなことは置いておくにしても、現代は普通、極限状態ではないから、いくらでも痛みや誹謗中傷から物理的に逃げることができるし、そうすべきでもあると思う。ただ、いろんな事情で逃げることができない場合、最悪の手段かもしれないけど「慣れる」ということは現代でも必要なのかもしれない…


こんな風に書くと、慣れるということは、自分の感情を完全に消し去ってしまい、精神的に死んでしまうことだと思うかもしれない。しかし、僕がこの物語からはそういった印象を受けなかった。なぜだろう。双子が「とても」素直に、受け取った親切に対して感謝したり、恩返ししたり、報いたり、していたからだろうか。その行為に僕は感情を感じたのだろうか。双子の言葉を使えば、彼らは「しなければならないことをやった」に過ぎないのだろうが…


この物語で特に感銘を受けたのが、双子の描写する人々の描かれ方だ。双子が観察する、彼ら以外の外の人々、彼らから観察される戦時中の極限状態の人々は醜く、そして懸命でとてもリアルだった。そのあられもない姿に心を揺さぶられた。二作目『ふたりの証拠』の訳者解説にこんな一文がある。


アゴタ・クリストフ自身、あるヨーロッパの雑誌の取材に答えて、『悪童日記』では、戦火のなかで過ごした自分の少女時代の思い出をもとに子供について書いたのであって、戦争はどちらかというと、極限状態をリアルに設定するための口実だったと述べている (p298-299アゴタ・クリストフ、堀茂樹訳『ふたりの証拠』ハヤカワepi文庫、早川書房2001年)


とあり、作者は子供と、極限状態を書きたかったのだとわかる。極限状態(物資が少なく、選択肢が少なく、移動が困難な状態)に舞台を設定すると、人間の欲や、不条理、浅ましさ、弱さがとても描きやすいのだな、と思う。そして作者は本当に良く人を観察している。

人を観察するというと普通、「自分にとって外の人を見る」ということを連想すると思う。「人間ウォッチングが趣味」というとカフェなどで自分の外に展開されている人間たちのなり振る舞いを見るのが好きなのかなと思うと思う。しかし、作者のの優れている点は、外の人間だけでなく、自分の内側の人間、つまり自分の内面や感情を良く観察しているところだと思う。


なぜ人は人を殺すのか、なにに快感を覚えるのか、亡命していること、難民であること、故郷に帰っても居場所がないことに、どんな感情を持っているのか。自らの感情、情動、苛立ち、幻想をしっかりと、静かに、落ち着いて観察しているからこそ文章化できるのだと思った。そういったことは、他人がやることをじっと観察し、そして自分をじっと観察することで初めて書くことができる。混乱した人間の心を書くということは、そういった卓越した観察眼を持っていなければ、できないことなのである。 


おそらく、上記で取り上げた二つのこと、感情を排し静かな目線で人間の欲を描写していることと、人間心理への洞察の鋭さを感じることから、トーベ・ヤンソンの『誠実な詐欺師』を思い出したのだと思う。そして、訳してもなお(訳者の腕がいいのかもしれないが)感じられるその文体の簡潔さ、シンプルで削ぎ落とされた表現にも共通するところがあると思う。


どちらも雪が降り積もり、足音さえも雪に取り込まれてしまうような、静かな冬に読みたい物語だった。今年は暖冬だけど。