2017年4月14日金曜日

誰かに怒られないと何もできないないなんて、ほんとうにカスでしかない。でも、今してることって所詮その程度のこと(自分にとってそこまで大切じゃないこと。あ言ってしまった)なのかもしれない。でもここまで来てしまったのだから、どうにかこうにか形にはしなくてはいけないのであるし、自分のためにもやったほうがいいとおもう。

2017年4月12日水曜日

思い出したこと

小学校の歴史クラブメンバーだった頃。小学校高学年のとき、土曜日だったかな?に週一回だけ行うクラブ活動の時間というものがあった。バレーとかスポーツ各種、茶道、生花など習い事っぽいことなどいろいろあった。どれも学校の先生ではない地域の人々を講師に招き、行っていた。多分地域と学校の交流活動みたいな位置づけだったのだろう。そこでなぜか僕は歴史クラブを選んですごく楽しかったことを、河川敷を歩いていると思い出した。



いま考えると、不思議な人々が集まっていた。他のクラブ活動は十数人いる大所帯なのだが、歴史クラブ員は僕1人だけだったとおもう。3人だったような気もするのだがうまく思い出せない。とりあえず、熱心な部員は僕だけだった。

そして顧問の先生は算数を主に教えていた、おばさん教員、後藤先生である。この先生は1mlを教えるために出してきたティースプーンを「後藤先生の小さな魔法のスプーン」とよんでいたり、「後藤先生のおならはバラの香りよ」といっていた。まあ小学生に人気が出そうな先生である。僕も好きだった。算数は結局好きにならなかったけど…

そして地域から招待されたのが、街で営業しているのか不安になる小さな食料品店を営む森田さんである。森田さんは夫婦ともに熱い共産党員で、いま思えば街の人からはちょっと白い目で見られていたように思う。そうここは自民党王国北陸だから。森田さんは当時すでに70歳くらいのおじいさんで、すごくカリガリに痩せていた。食料品店の奥の座敷には日本人形とか各地のペナントがごちゃまぜに飾られ、後藤先生と僕が座るといっぱいいっぱいだった。

森田さんの歴史クラブは凄まじく濃く、素晴らしいフィールドワークだった。毎回まず行く場所が決まっている。それは地元の神社や、弥生時代や古墳時代の遺跡、道に建てられた碑の類などである。その行く場所に関わる古文書が引用された資料を森田さんは毎回作ってきた。そのプリントの解説を学校で聞いたのち、森田さんの所有する、スズキの2ドア軽自動車でフィールドへ向かう。

遺跡は田んぼの真ん中の何にもない所だったりするので、車がやたら揺れるのである。酔いそう・・・と思った頃に到着する。古墳といっても今ではただの山、でも登ってみると市内が一望できたりして、感動した記憶がある。森田さんは古文書や木簡の類を引き合いに出しながら、考古学的にどんな豪族がこの地を治めていたのかを解説してくれた。この地域が地形的な理由から穀倉地帯だったこと、大和豪族との婚姻関係、古墳時代の豪族は見晴らしのいい所に墓を作ったなどなど。また弥生時代と古墳時代の集住の仕方の違いなども実際の地形を見ながら学んだ。大学時代に日本考古学の授業を取った際、全く同じ解説を同じように受けて大変驚いた。森田さんは大学レベルのことを小学生に行っていたのである。

森田さんの歴史は古墳時代にとどまらない。神社には牛の像があったのだが、その牛の像から、菅原道真の話、その子孫を名乗った前田家の話などがつらつらと述べられるのある。ただ結論は、なぜこの神社にこの牛があるのかわからないというものであった。なぜなら、天神社でもないし、前田氏と関わりのある神社でもないためだ。寄贈者の村人の名前はあるがなぜ牛の像を奉納したのかはわからないと森田さんは結論付けていた。わからないという結論でいいのか!と感銘を受けた記憶がある。

また、ある日は線路沿いに建つ碑と廃線跡を探しに行ったりもした。その碑は北陸本線建設のために亡くなった方々を供養した碑で、もう朽ちかかっていた。その付近には建設省とかろうじて読める石が転がっており、建設時の引き込み線の廃線跡だとわかった。そこでもその時代なぜ北陸本線が建設されたのか、どのくらい困難な工事だったのかなど文献を参照しながら、菜の花の揺れるあぜ道で講義が行われた。

そういったフィールドワークからもどると、森田さんの家に招待され、陰気な奥さんからお茶をいただいた。(奥さんのことは苦手だった。森田さんと違って狂信的に共産党を勧めてくるから)お茶をいただきながら聞いたことでいまでも覚えているのは、「報道は必ず誰かの目線で書かれたものだから、真実を知りたければ、現場に行き、自分の目で見て耳で聞かなければいけない」と言っていたことだ。実際森田さんは万景峰号が来航したとき新潟まで見に行ったそうだ。きっと、その精神から歴史クラブの活動はフィールドワーク中心だったのだと思う。


いま振り返れば、小学校で一番楽しかったのはこの歴史クラブの活動かもしれない。そしていま人類学という学問をやっている原点はここにあるような気がする。僕の身体に森田さんの言葉が残っているのかもしれない。













(人名は仮名です)


2017年4月8日土曜日

不眠と異国感

男は目を覚ます。時計の針は4時を指している。外は薄ら明るくて、男には明け方なのか夕方なのかわからなかった。とりあえず起きてみると雨音が聞こえる。かなりひどい雨だ。昨晩はうまく寝つけず、明け方まで起きていたように思うから、きっとこれは夕方なんだろう。

雨が降り続く。男の部屋は木造二階建ての二階で、広さは大体京間の6畳。ベッドを置いているから実質4畳半くらいといったところか。長屋のような、その建物は築100年
を超えていて、趣き深い(古い)。いつもなら朝の鶏の鳴き声(うるさい)で目覚めるのだが、ここ一週間ほど眠れないので、鳥の声を合図に気を失うといった具合だ。

半分寝ぼけながらシャワーを浴びると何か食べなくてはいけない気がしてくる。外に出よう。その辺に落ちている黒いスラックスをはき、暗い臙脂色のボタンダウンを着る。暖かくなってきたのに、暗いなと思い、明るい空色のオックスフォードシャツに変える。

外に出てみると新入生歓迎会(新歓)の季節だからか20人くらいのヒトの群れが歩道の東大路のあちこちに発生している。雨で灯り始めた街燈が霞む。体は朝、寝起きなのに世間は真っ暗で不思議な感覚だ。そう、時差ボケみたいだなと感じる。なんだか寝起きでフアッとしたまま深夜の空港を出て、連絡バスに乗り、中央駅につき、見知らぬ街のしっとり濡れた石畳の上を、宿が見つかるかなと不安に思いながら歩くあの感じ。僕にとっては深夜にフランクフルトに降り立ち、ルクセンブルクの町に向かう小さなバスに乗り込み、終点の駅で降りたはいいが、止まる予定のホステルの場所がわからない。あの何とも言えない体の疲労と、時差とがあいまった異国感を毎日住む町で味わった。不眠のおかげで。


人によって遠くに来たなと感じる部分はそれぞれだと思う。言語、人間の顔、食事、気候、雰囲気…でも僕にとっては、「時差感」とでもいうべき身体の浮遊感、まるで昨日に身体だけを置いてきて、脳みそだけここにある感じ...こそが、遠くに来たなと感じさせるんだと思う。

2017年4月2日日曜日

体温

温度に敏感になれる寒い季節が好きだ。

とくに体温は人間がそこにある、いるということを言葉なしに教えてくれる

体温が伝わることは一番の承認だったりもする

そしてある種の暴力、抗いがたい力の表象としての体温も


なるほどこうふわっとした抽象的なことを書いても伝わってないような気がする