2017年12月27日水曜日

だめだだめだだめだ

だめだだめだだめだ

マジで死ぬ


マジで書けない


マジで意味わからない


マジではてな


涙が出て部屋から出られない

2017年12月24日日曜日

良いクリスマスを

私ってマジでやな奴かもしれん・・・

”Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world?”  1Crinthians 1:20

私はそれほどまでに、みんなに優しいだろうか?この先の文章は本当に自惚れが過ぎたことだと思うけど、自分のことをまとめるために書いておきたいと思う。あんまり多くの人には読んでほしくない。と言いながらブログに書いているのは不思議すぎる。性悪なのかな。


2017年12月19日火曜日

はいはーい無理です!

ZI・BU・Nが哀れで仕方ない!!(作曲家:募集中)

何もできない、自分に甘々な、自分が最高に哀れ!

哀れすぎて泣ける!


あー自分ってかわいそう〜
(あー幸せ〜)
あー自分ってなんて不幸なんだろう
(あーなんだか落ち着くわ〜)


今日も昨日も、そのまた明日も
いつまでも自分の力が明らかになるのが怖くて手を抜いてる


そもそもやりたいことなんてないし
そもそも書きたい事なんかない


そもそも、そもそも?


あー自分ってかわいそう〜
(あー幸せ〜)
あー自分ってなんて不幸なんだろう
(あーなんだか落ち着くわ〜)


自分が哀れで流す涙ほどカッコ悪いものはない
このぬるま湯に誰か氷水をぶち込んで

2017年12月18日月曜日

銭湯はやっぱいい

銭湯に行った。
京都の銭湯はサウナが無料で入れるところが多い。サウナと水風呂に交互に入るのはやっぱり最高だ。最初の2回くらいは、ただただ熱いし、ただただ冷たい。でも3回目くらいに水風呂からサウナに入った時のあの血管が広がっていく感じがとても良い。そしてその頃から水風呂に入るのも素晴らしく感じ始める。

ああ。フィンランドのサウナが懐かしい。日本のサウナと違って、水蒸気で温めるので、蒸し暑く、湿気で充満している。肌もツヤツヤになる。

そしてサウナを出た後、雪の上を小走りに走って、凍った湖に空いた穴へダイブするあの感じ。タンペレに帰りたい・・・

湖はまじで天然なので、藻?みたいなものが足にまとわりつく。その感じもなかなか良い。泳いでいると、髪の毛が凍ってくる。そろそろサウナに戻ろう。

泳いだ後は肌の周りが引き締まっているからか、サウナを出た時よりも暖かく感じる。
本当だよ!

サウナに入ると、じわーっと血管が開く。サウナの扉をあけた者の責任として、ヒーターにロウリュ(水をかける)。
水蒸気が一気に天井まで上がり、霧雨のように、熱気が上から降りてくる。うーん息を吸うと痛い。頭を垂れる。ヒーターがちろちろとなる。

ビフタ(白樺の枝)なんかがあると最高である。あーあの香り。最高である。

もうそろそろ、疲れて来たなという頃合いでサウナを出て、マッカラ(フィンランドの魚肉ソーセージのような肉のソーセージ)と薄いビールを飲む。ああ天国。

タイツに、風を通さないズボン、厚手の靴下、ヒートテックにセーターをきて、スノーブーツを履いて、コートを着て、帽子をかぶり、手袋をして、さあ帰ろう。

息を吸うと痛いほど冷たい空気が鼻毛を凍らす。これがまた、家に入ると溶けて鼻水みたいになるんだよね。

混沌の中に光る

混沌の中に光が見える

無数に

混沌の中に光る石がない

たった一つ

混沌の中に希望が消える

とおくに

遠くのとおおくの外側に

皮が感じられる


皮はザラザラしてふわふわだ




2017年12月3日日曜日

遣る瀬無し

遣る瀬無いの意味は、デジタル大辞林によると以下のようである。

  1.  思いを晴らすすべがない。せつない。
     施すすべがない。どうしようもない。
     気持ちに余裕がない。

     今の僕の気持ちは全部です。
    ここだけの話、修士論文まだ、0文字なんです。


    まわりが二章分書いた、三章書いた、書ききったなど言っているなかこれである。
    ほんと昔から変わってない。


    遣る瀬無いに戻りますが、遣る瀬がないとはどういう意味だろうか?
    遣るは「行かせる」とか「行く」という意味ですよね。古語的にも現代的にも。乗り物を行かせるという意味もありますよね。
    瀬とは辞書を開くと、川などで徒歩で渡れるところ、渡るための狭い所、転じて時や
    場所の意味とあります。

    なるほど、舟などに乗っていてそれを着ける場所がなく、どうしようもない感じなのでしょうか

    まさに、そんな感じです。どんどん月日は流れて行くのにどこに着岸(着眼)すればいいのかわからない・・・



2017年9月4日月曜日

バンコク、スワンナプーム空港での他社乗り継ぎ 

昨年、中国東方航空からエチオピア航空に乗り継いだことについて書いておきたいと思います。

結論から言うと、問題なく乗り継げます。


中国東方航空は日本から上海経由バンコク行きのチケットしか発券されず、エチオピア航空のチケットはバンコクで発券するよう日本の空港で言われて飛び立ちました。


時間的にタイに入国できないし、ということは荷物も受け取らないので、どうすればよいのかとても不安でした。


スワンナプームの国際線乗り継ぎの表示に従い進むと、手荷物検査のところにやって来ました…こういうことは乗り継ぎの空港でよくあるのですが、本当にここを通っていいのか不安だったので係員に聞くと、わかってないのかわかってるのかよくわからない返答…とりあえず通れとジェスチャーされたので、とりあえず通りました…


通った先はいわゆる搭乗口や免税店が並ぶエリア。さあ、どこで発券するんだ…



うろうろしていると、交差点のような十字路に航空会社カウンターと書いた表示がありました。確かカウンターは二ヵ所くらいに別れており、どちらに目的の航空会社のものがあるかは電子掲示板に表示されています。


で、表示された場所のカウンターに行ったのですが、エチオピア航空の人は居ません…なぜだろう搭乗二時間前きっかりじゃないと来ないのかな…としばらく待ち、二時間前になりましたが未だにオープンしません。さすがに誰かに聞こうと周りを見渡すと、なんと!真後ろにもカウンターがあったのです…まじか…同じエリアに二つの別れたカウンターあるのかよ…


そこではエチオピア人らしき人がチェックインしているところで、その人の後ろに並びました。


自分の番になり、Eチケットとパスポートを提示すると、「これどうする??」みたいな話をカウンターの人がタイ語で始めました…ん?なんか問題が…?担当者がかわり、その担当者が方々に電話や無線をします…なんだなんだ…


預けた荷物をどうやってエチオピア航空の飛行機に載せるのか話しているようでした。「あなたの荷物の新しいタグは搭乗口で私が渡すから忘れないでね!」と言われ搭乗券を受けとりました。


大丈夫かな…と思いつつも、時間あるのでカオマンガイとソムタムを食べておくことにします…美味しかったが高かった…


ちょっと欲が出て、タイティー買ってたら搭乗時間になったので走って搭乗口へ


これ、走らなくて良かったやつやと搭乗口について何となく悟ります。はい、遅延です。


そういえば、荷物のタグは…とそわそわ搭乗口付近に座っていると、チェックインの時のグランドスタッフの方が!新しい荷物のクレームタグを貰い、無事バンコク発アディスアベバ行きの飛行機に乗りました。


これ、一年一ヶ月前の出来事…まだ私がブンナカラとブンナの違いも知らない頃…

2017年9月3日日曜日

夢を見た。

最初は馬の夢。馬にすごく上手く乗ってた。馬に乗りたい欲が最高潮に達してるんだと思う。ホストブラザーに頼めば馬乗れるらしいけど、調査と関係ないから悩むところ…牛を撫でて気をまぎらわす。私ってこんなに動物好きだっけ?


次に見た夢は、女が家の扉を叩いて、開けろと叫んでいる。怖い。よくよく聞くと、食糧を分けろと叫んでいる。あんたが困ってるときインジェラをあげたんだから、今度はそっちが私に恵みなさい!何故か断固として渡さない私。あなたにインジェラをあげる筋合いはない!と返す。扉を叩く音がマックスになったとき、犬の鳴き声で目覚めた。


ばうわう!


起きて外に出ると、家族みんなが起き出しており、騒々しい。どうやら子犬が食糧庫に入ったようだ。どうせ食べ物無いし、明日の朝出そうということになって一同解散。



時計は4:00を指している。



朝、起きてみると、子犬が三びき居た。どこからやって来たのだろう。人間を警戒しているが帰るそぶりがない。三びき固まって寝ている。

2017年8月31日木曜日

一人でいるのは難しい

どうすればいいかわからず、近所を二周した。本当はフォーマルクエスチョンとかの準備がしてあって聞きに行かなきゃいけないのだけど、なんかできなくて、ぶらぶらした。

近所を二周すると同じところを二回通るので、さすがに髪を結うご婦人方に怪訝な目で見られた。なので、一人で落ち着けそうな場所を探すが、見つからない…


村のどこに行っても「ファレンジ!」(外国人)と叫ばれるし、そうでなくても「どこにいくの?」と聞かれる。


無視されたり、じっと無言で見つめられるよりずっとありがたいが、都市的な無関心の心地よさに馴れた自分にはいささか疲れる時がある。そういえば、中高生の時近所の人に妙に過敏になってたなと思い出す。近所のいつも挨拶してくれるおばちゃんに会わないように道を変えたりしてた…今なら挨拶できるけどあの頃はなぜ嫌だったんだろ…


話をエチオピアに戻すと、この辺りでは一人でいるのが難しい。近所の茶屋(シャイベット)にいくと、暇な成人未婚男性(ゴロムサ)に絡まれて面倒だし。かといって森や公園のようなpublicな空地は探してみるとなかなか無い!結局落ち着いたのが家の裏の建設中の建物の軒下だ。

家の裏にいても、家の人からの何で男なのに家にいるんだろうという目線を感じる。まあ、外国人は変だなと思ってて!と心のなかで呟く。



「夕方に家にいるのは良くない」と言われて、家の男達に連れ出されることがよくある。特にすることがあるわけではないので、ビール屋に行ってアルコールフリー穀物ドリンク(ホストファミリーは厳格なプロテスタントだからお酒は飲まない)を二、三時間飲んだり、知り合いのスーク(キオスク)でテレビを見たりするだけなのだが。


ともかく、今日はとても一人で座ってるのによい天気だ。雨上がりの空は高く青く、薄く細やかな鱗雲がたなびき、涼しい風が時折、ふっおっ、と吹く。遠くの低地には積乱雲が見え、今夜の雨を予感させる。


喧嘩もなく、村は静かで、平和である。おっと娘が薪(たきぎ)を拾いに来た、それではごきげんよう。

2017年8月29日火曜日

水浴び

水浴びについて。パンツは諸説ありますがここでは下着を指します。

今回は井戸水(もしくは貯め置き雨水)とたらいを使った水浴びについて書きます。川が近くにある人はそこで体を洗えるからいいですね。


たらいにできるだけ多目の水を汲みます。あ、でも運べるくらいにしておきましょう。たらいを物陰に移動させます。人前でショーのように水を浴びたい人は道の真ん中などに持っていくといいと思います。


僕はいつもバナナの木が密集してる家の前庭で水浴びします。低めのバナナの木はちょうどいい高さで脱いだ服を引っかけられるのです。


乾いたたらいに、大きめの布(バスタオル可)、吸水性のよい布、替えの下着、靴下、水を汲む柄杓、石鹸を詰めます。

裸足にサンダルなどを穿き、乾いたたらいを持ち、先程のたらいの場所にいきます。


体を洗うのによい場所は、水捌けがよい、もしくは地面に傾斜がついている場所です。傾斜がなければ穴を掘ってもいいと思います。


服を脱ぎます。上半身から脱ぎ、順番にバナナの木に挟み込むとよいです。ズボンが一番上に来るようにします。諸説ありますがズボンとは下着の上にはく筒状の衣服のことを指します。


パンツは履いたまま水浴びします。一つのポイントですね。少し体を湿らせないと石鹸がアレしないので、柄杓で適当に湿らせます。



石鹸を身体中に塗りたくります。その後、柄杓の水で流します。右肩など石鹸が残りやすいので、注意して落とします。


一番のコツは、パンツ周辺の洗い方なのですが、よくよく考えたら書けないので、各自試してください。


上半身を吸水性のよい布でさっと拭き、腰に大きな布を巻きます。


速やかにパンツを脱ぎ、足など下半身を吸水性のよい布で拭き、新しいパンツをはきます。ここで一段落です。疲れましたね。


人間は服を着ないと比較的寒さに弱いので、上半身にも服を着させます。ズボンもはきます。この際、ズボンの中の携帯などを落とさないよう気をつけてください。僕は今朝落としました。



ズボンをはいたら、大きな布は不要なので首にでもかけましょう。


そろそろ吸水性の落ちかけてる布をつかい足を拭きます。片足拭き、足をあげたまま靴下を履きます。洗い場から部屋に行くまでの道が砂っぽいので、せっかく洗った足を汚さないよう、ここで靴下を履きます。まあでも好みなんでどっちでもよいです。


荷物を乾いたたらいに回収し、部屋に戻ります。


身体を洗うことができました。毛穴が開いてこの世とは思えないくらい爽快な気分です。


私は彼岸にいるのでしょうか。


それではごきげんよう。

2017年8月24日木曜日

やっぱり雨が好き

今日は久しぶりに朝から雨が降っている、家の増築のため大工さんが来ているが、彼らも軒先に雨宿りしている。私もホストファザーも家のなかで朝のブンナをする。

ブンナとはアムハラ語でコーヒーという意味だけど、この辺りでは食事の事を指すことが多い。ちなみに飲み物はショホラというコーヒーの実の飲み物なのでブンナすら飲んでいない。コーヒーの木から出来たものには変わり無いが…


雨の日が好きなのはなぜだろう。家の中に入らざるを得ず、話をしたり、暇潰しをする時間が好きなのかもしれない。

普段の労働や仕事の手を止め、佇まなければならない状況。

家の中から激しい雨を見る、少しの不安と安心感。

いや、ただ水が好きなのかもしれない。子供の頃は長靴をはいて雨のなかを歩くのが好きだった。

キャンプのとき、雨でびしょびしょになるのも好きだったな。大変だったけど。


大雨が降ると今でも興奮して寝れないことがある。子供みたいだなぁ。



雨が降っている。

2017年8月20日日曜日

フィールドに体が適応してきた?

フィールドに本格的に入って、ほぼほぼ2ヶ月になった。からだや味覚がようやく馴染んできたのかも…と感じる。

首都に飛行機で降り立ったときは、日本にいた時、同様毎日体を洗っていたが、最近は二、三週間洗わなくても体が痒くならなくなった。

下手に高い頻度で水浴びをすると、周りの人の臭いが妙に気になる。自分もあまり水浴びをしないでおくと、そんなに周りの人の臭いは気にならない。あまりにも自分が臭いときにそろそろ水浴びようかなという感じだ。

味覚に関しても、慣れてきたのか、研ぎ澄まされてきたのか、塩加減と上手い不味いがわかるようになってきた。前回はどの料理も、とうもろこしと高菜で構成されていて代わり映えしないなと感じていたが、今は同じ素材でも、違いがわかるようになった。例えば、今日は玉ねぎが二割くらい多いなとか、唐辛子から良く味が出ているな、等々。

先週、街のホテルでパソコン仕事をしながら紅茶を頼んだ。日本なら飲物に砂糖など入れたことなかったが、なにも考えず砂糖を山盛三杯入れていて自分の行動に驚いた。

エチオピアで紅茶というと、煮出した紅茶に飽和状態まで砂糖を溶かした激甘の飲み物を指す。私のすんでいるところは比較的物質的に豊かな、街よりの村なので、コーヒーなどの毎日の飲み物にも毎回大量の砂糖を使う。去年は砂糖を入れないでとリクエストしたりしていたが(そんなことを言うと大体変な顔をされる。砂糖要らないとか正気?みたいな)、今回はリクエストするのも面倒になってしまい、そのまま毎日激甘の飲み物を飲んでいる。

その味に慣れてしまったのか、ホテルで自分で砂糖を調節できるのに、無意識のうちに大量の砂糖を投入していて驚いたのである。

甘くないと紅茶を飲んだ気がしないと思うくらいになっている…

人間は本当に環境に適応力のある生き物だなぁと感心している。

2017年8月18日金曜日

子供の葬式

近所のスーク(日用品が色々と売られているキオスクのようなところ)の息子(3歳くらいか?)が亡くなり、埋葬に参列して来た。

ちょうど私が熱で寝込んでいた時期に病院に行ったりしていたそうだ。病院でもらった薬を家で飲んでいたが、うまく効かなかったのか、そのまま自宅で亡くなったそうだ。


その子供はスークに買い物に行くと、いつも付きまとって来た子供だった。「アッシャーム、アッシャーム、サラームノ、サラームノ」(アリ語とアムハラ語で元気か?)

一応返事はしていたが、鬱陶しく思い、返事しないこともあった。子供への扱いはそんなものである。


ただ、亡くなったと聞くと、やはり驚く。明日から買い物に行ってもつきまとわれないのか・・・と。驚くけどそんなに悲しいとは思えない。人は生まれたら死ぬものだから。我ながら、血も涙も無い奴だ。


葬儀での母親の反応はとても激しかった。泣き(周囲の人々の儀礼的な泣きとは少し違う感じ)、叫び、棺にしがみつく。最終的には親戚の男たちになだめられ、無理やり車の助手席にのり、埋葬場所に向かった。

埋葬場所に向かう、車の後ろを100人以上の参列者(多くは同じ村の人)がついていく。道は人で埋め尽くされ、一時的に通行ができない状態になる。

埋葬場所にたどり着いたが、人だかりで何が行われているのかはわからない。牧師が何か祈りのようなものを唱え、会衆が「アーメン」と答える。

ほどなくして、ホストブラザーに「いくよ」と言われたので、その場を去ることにする。




これはここ十年くらいの悩み(?)なのだが、人の死をそこまで重く捉えることができない。十年前の祖父の死も、五年前の父の死もただそこにある事実として受け止めるだけで特別悲しいとか、喪失感に苛まれるとかいうことは起きなかった。死は突然起きるように思えるが常にそこにあると僕は感じている。生きているとは死んでいることと密接に関わっている。

死に対する特別視のなさは、まあ仕方ないかと諦めているので特には悩んではいないのだが。それで社会的には大丈夫か?と思うことはある。でもエチオピアで何度か葬儀に参加し、儀礼的泣きを目撃すると心の中は別にそれでいいのかなともちょっと思う。


以前、ホストファザーに連れられ遠くの山へ葬儀に行った時、直前まで冗談混じりで話していたホストファザーが、葬儀の家の門を通った途端大声で泣き始めたのである。後に続く妻や息子も同じように続く。門を跨いだその瞬間にである。もちろん門の内側の人には直前まで泣いていないことはわかると思う。悲しくて泣いている、のかもしれないが、門を跨いだ瞬間に泣かなければならないというノーム(規範)を強く感じた。


悲しくても悲しくなくてもとにかく泣くのだ。泣くことが重要なのである。


そこから、僕は死を悲しまなければならないという謎の呪縛から少し自分を客観視できるようになったと思う。死を悲しく思ったりおもわなかったりすることは、社会的にはあんまり重要でないのでは?むしろ泣いたり、弔意を伝えるという「行為」を行うことが重要なのである。


今朝スークの前を通ると、白い幕に囲われたエーフィエヤ(葬儀小屋)が建ってた。あの中で近親者は弔問客を迎え、三日三晩寝ずの番をする。今日も葬儀は続く。

2017年8月5日土曜日

「めっちゃセクシズムじゃん」

「めっちゃセクシズムじゃん」


ここ(エチオピアの村)で行われていることを特になにも考えずにチャットで伝えたら、上記のようにコメントされ驚いた。でも、よくよく考えれば確かにそうだ…


そのとき伝えたこととは、女性や子供は基本的に同じ皿から食べ物を食べないし、調理や配膳は女性の仕事だということ。例外として、誰もお客さんが来る予定もなく、家族だけの食事は、妻だけ夫や私と同じ皿から食べ物を食べることもある。


普段は夫(家主)と客である私は椅子に座りテーブルの上の皿から食べ物を食べるのに対して、女性(妻や嫁)や子供たちは地べたに座り、地べたに置いた皿から食べ物を食べる。食べ物の分配も常にテーブル組が優先され、女性や子供は後回しだ。


最初こそ驚いたが、一ヶ月という時間が経つうちに慣れてしまい、僕にとっても普通の事になっていたのだ。だからセクシズムじゃん!と言われて驚いたのだ。



初めてその光景を目にしたとき、「地面で食べるとはなんと屈辱的」と思った。ただ最近は地面で和気あいあいと食べる方が楽しそうと思うことが多い。普段の食事でテーブルで食べることが許されているのはホストファザーである夫と私だけなので、どちらかが居なくなると一人だけテーブルで食べることとなる。一人テーブルでご飯食べながら、地べたで楽しそうにご飯を食べている様子を見るのはなんだか寂しい。それはホストファザーも感じているようで、ホストファザーが遅く帰ってくると、たとえ僕が先にご飯を食べ終わっていたとしても「一緒に食べよう」と言われ、二回目の食事をすることが多々ある。


子供の中でも年齢の差より性差の方が優先的に考慮される。つまり3歳の男の子供は12歳の女の子供よりも優先される。3歳の男の子供が姉に命令するのに驚いたのだが、そのことに驚くほど自分が年功序列的な価値観を身に付けていることに対して二重に驚いた。


階級、身分による差別って、こういうことか!とふと思う。そして「屈辱的」と感じたのはどこの誰なんだろうとも、ふと思う。


今一度、日本の私の周りの環境から真っ直ぐにまなざすと、なるほど確かに、この状況はセクシズムなんだろう。日本での僕は女性差別には反対の立場である。

かといって、僕が進んで地べたで食べたり、大きいテーブルを買ってきて全員着席することを求めることを、やりたいとは思わない。というかやるべきではないだろう。私が考える「正しいこと」を実践することは、彼らが女性と、男性を差別することよりも暴力的だと思ってしまう。


暴力的だと感じるのは私が外国人だからなのか、人類学の調査者だからなのか、男性だと社会に認められているからなのか、それらすべてによってなのか。



そんなことを考えるのは、彼らの知恵、文化、技術、価値観、を学ばせてもらいに来ているのだから、謙虚にあろうとする模範的学生としてのポーズなんだろうか。


わからない。難しい。


そんなこんなで、結局今日も肘掛けつきの椅子に座っている。

2017年7月12日水曜日

ここではないどこかに

それはどこ?

ここは

なぜ

ここなの?



どこかが、あるから

ここ

なのではないの?

2017年7月5日水曜日

問題意識がない

問題意識がないことが私の人生の課題なのだが、この事を芸にできないだろうか?

と結構ずっと考えてる

2017年6月12日月曜日

くるしみ

胸がこんなにも締め付けられるのはなぜだろう。

本当に胸のあたりの宇宙が小さく小さく、折りたたまれてしまったような気持ち。


いつから、感情に、なぜを問うようになったのだろう


感情はいつからここにあるんだろう。


あの松林で、できるだけ遠くに投げたあの白い粉


ただ単なる白い粉。



松林の向こう側の海で、水と溶け合った、白い粉



悲しくなんかないのに、流れた涙



嬉しくなんかないのに、笑ったあの時




いつでも正直で、水が流れるように、存在できたらなぁ




なぜ理由をつけてまで、地面の上に私たちは立っていなければならないのだろう




なぜ僕はなぜと問わねばならんのだろう



なぜ生きている状態と死んでいる状態があるんだろう




なぜ水は流れていくのだろう。

2017年5月31日水曜日

Googleのザハハディド

今日のグーグルはザハハディドを祝ってた。


誕生日でもないし、どういう日なのだろうと調べてみると、2004年5月31日(つまり今日)女性として初めてプリツカー賞を受賞したそうだ。ソースはアルジャジーラ

Zaha Hadid: The only woman who won the Royal Gold Medal http://www.aljazeera.com/news/2017/05/zaha-hadid-woman-reshaped-modern-architecture-170530200456379.html

日本語でザハハディドについて調べると、磯崎新の1年前のコメントが結構上の方に上がってくる。

「<建築>が暗殺された」磯崎新さん、ザハ・ハディドへの想い綴るhttps://www.buzzfeed.com/jp/daichi/isozaki-note-for-zaha?utm_term=.oiV2aaDdg#.pylkjj9Oy

ほんとうに日本が当初の案を建設できなかったのは残念だなぁと思う…いまだに悔しい。

あの頃からおかしな日本の構造は表面化していたのだなと思う。

土岐麻子を聞く


最近、友達に教わった土岐麻子をよく聞いている。

アルバム PINK
https://open.spotify.com/album/6nws9VsVysrP1DvIjnBSyD


ちょっと昔っぽい曲だけど、妙に落ち着く。
歌詞はムカつくほど、表面的なんだけど、なんかそれでいい。

そしてPVかわいい
BOYフロム世田谷

2017年5月24日水曜日

2017年5月22日月曜日

網の中にくるまっているだけでは





網の中にくるまっているだけでは、自分が何者だかわからない。


網はくるまるものではなく、投げるものである



私の舟はどの方向に向かっているのだろうか




目印のない海を漂い続け、だいぶ時を経た




ここはどこ?

2017年5月2日火曜日

今日から変えよう。今日から変わろう。

あえてキモいタイトルをつけてみた。自己啓発本みたいだけど、真剣に自己啓発が必要な状態の私である。


これから研究室に戻って、モリモリと論文を書く予定である。


赤裸々に書いてしまえば、まだ論文は1000文字を切ったところだ。「初めに」しか書いてない 締め切りは一か月以上過ぎていて、渡航しようと思っていた5月になってしまったのにチケットや渡航準備が全くできていない。

どうしてなんでこんなことをしているのか自分でもわからない。

わからないといって言い訳をしているだけのような気がする。
自分の手から生まれおちる、つまらなくて、意味もなくて、意義もない文字の塊を批判されることを恐れて何も書けないままなだけなのである。


本当につまらない自意識だ



きっとそうなんだろう。




そんなことをいくら思っても仕方ないので、泣きながら、つまらないものを一つ書こうと思う。




一か月いや二か月?もじもじしてようやくそんな風に思えた。本当にコストパフォーマンスが悪い。というか、自分をコントロールできていないのだと思う。自分をどうやってコントロールしていたっけ?今までできたことがあるんだろうかと真剣に考えてみる。


大体人もしくは金に頼って、モチベーションを上げてきたと思う。

高校受験の時は、受験直前(確か夏休みあと?)にさすがにこれはやばいと思い、親に頼んで塾に入れてもらった。 何とか滑り込みで合格。

高校時代は算数ができなかったのに、滑り込みで合格してしまったがゆえに数学でとてつもなく落ちこぼれに。理系クラスだったのに。だから算数ドリルとか買ってみたけど、自分だと続かないので、齢17歳にして公文式デビュー

まあ、結局理系はあきらめて、高校三年生で文転。
アメリカの大学に行く夢を追いかけTOEFLを受けるが惨敗。こりゃだめだとなり、国内の大学を受けることに。第一志望だった大学の英語の科目が TOEFLそっくりだったので、高校時代に通ってたインターナショナルスクールの夜間部の先生に頼んで対策をしてもらう。(絶対その先生はつまらなかったと思うけど笑)

またまた滑り込みで大学へ。
大学院に入るときも一緒で、試験対策はじめたのは2ヶ月前。学部の指導教官に「時間無いから、ヌアー族精読したらいいよ」と的確なアドバイスをうけ、ひたすらそれをする。そしたらまたまた滑り込みで大学院へ

こうして振り返ると見事な滑り込み人生である。
そして教育にしこたまお金をかけてる。ありがとう両親。


たぶんこれからは自分で自分をコントロールしなきゃいけないんだろう。


2017年4月14日金曜日

誰かに怒られないと何もできないないなんて、ほんとうにカスでしかない。でも、今してることって所詮その程度のこと(自分にとってそこまで大切じゃないこと。あ言ってしまった)なのかもしれない。でもここまで来てしまったのだから、どうにかこうにか形にはしなくてはいけないのであるし、自分のためにもやったほうがいいとおもう。

2017年4月12日水曜日

思い出したこと

小学校の歴史クラブメンバーだった頃。小学校高学年のとき、土曜日だったかな?に週一回だけ行うクラブ活動の時間というものがあった。バレーとかスポーツ各種、茶道、生花など習い事っぽいことなどいろいろあった。どれも学校の先生ではない地域の人々を講師に招き、行っていた。多分地域と学校の交流活動みたいな位置づけだったのだろう。そこでなぜか僕は歴史クラブを選んですごく楽しかったことを、河川敷を歩いていると思い出した。



いま考えると、不思議な人々が集まっていた。他のクラブ活動は十数人いる大所帯なのだが、歴史クラブ員は僕1人だけだったとおもう。3人だったような気もするのだがうまく思い出せない。とりあえず、熱心な部員は僕だけだった。

そして顧問の先生は算数を主に教えていた、おばさん教員、後藤先生である。この先生は1mlを教えるために出してきたティースプーンを「後藤先生の小さな魔法のスプーン」とよんでいたり、「後藤先生のおならはバラの香りよ」といっていた。まあ小学生に人気が出そうな先生である。僕も好きだった。算数は結局好きにならなかったけど…

そして地域から招待されたのが、街で営業しているのか不安になる小さな食料品店を営む森田さんである。森田さんは夫婦ともに熱い共産党員で、いま思えば街の人からはちょっと白い目で見られていたように思う。そうここは自民党王国北陸だから。森田さんは当時すでに70歳くらいのおじいさんで、すごくカリガリに痩せていた。食料品店の奥の座敷には日本人形とか各地のペナントがごちゃまぜに飾られ、後藤先生と僕が座るといっぱいいっぱいだった。

森田さんの歴史クラブは凄まじく濃く、素晴らしいフィールドワークだった。毎回まず行く場所が決まっている。それは地元の神社や、弥生時代や古墳時代の遺跡、道に建てられた碑の類などである。その行く場所に関わる古文書が引用された資料を森田さんは毎回作ってきた。そのプリントの解説を学校で聞いたのち、森田さんの所有する、スズキの2ドア軽自動車でフィールドへ向かう。

遺跡は田んぼの真ん中の何にもない所だったりするので、車がやたら揺れるのである。酔いそう・・・と思った頃に到着する。古墳といっても今ではただの山、でも登ってみると市内が一望できたりして、感動した記憶がある。森田さんは古文書や木簡の類を引き合いに出しながら、考古学的にどんな豪族がこの地を治めていたのかを解説してくれた。この地域が地形的な理由から穀倉地帯だったこと、大和豪族との婚姻関係、古墳時代の豪族は見晴らしのいい所に墓を作ったなどなど。また弥生時代と古墳時代の集住の仕方の違いなども実際の地形を見ながら学んだ。大学時代に日本考古学の授業を取った際、全く同じ解説を同じように受けて大変驚いた。森田さんは大学レベルのことを小学生に行っていたのである。

森田さんの歴史は古墳時代にとどまらない。神社には牛の像があったのだが、その牛の像から、菅原道真の話、その子孫を名乗った前田家の話などがつらつらと述べられるのある。ただ結論は、なぜこの神社にこの牛があるのかわからないというものであった。なぜなら、天神社でもないし、前田氏と関わりのある神社でもないためだ。寄贈者の村人の名前はあるがなぜ牛の像を奉納したのかはわからないと森田さんは結論付けていた。わからないという結論でいいのか!と感銘を受けた記憶がある。

また、ある日は線路沿いに建つ碑と廃線跡を探しに行ったりもした。その碑は北陸本線建設のために亡くなった方々を供養した碑で、もう朽ちかかっていた。その付近には建設省とかろうじて読める石が転がっており、建設時の引き込み線の廃線跡だとわかった。そこでもその時代なぜ北陸本線が建設されたのか、どのくらい困難な工事だったのかなど文献を参照しながら、菜の花の揺れるあぜ道で講義が行われた。

そういったフィールドワークからもどると、森田さんの家に招待され、陰気な奥さんからお茶をいただいた。(奥さんのことは苦手だった。森田さんと違って狂信的に共産党を勧めてくるから)お茶をいただきながら聞いたことでいまでも覚えているのは、「報道は必ず誰かの目線で書かれたものだから、真実を知りたければ、現場に行き、自分の目で見て耳で聞かなければいけない」と言っていたことだ。実際森田さんは万景峰号が来航したとき新潟まで見に行ったそうだ。きっと、その精神から歴史クラブの活動はフィールドワーク中心だったのだと思う。


いま振り返れば、小学校で一番楽しかったのはこの歴史クラブの活動かもしれない。そしていま人類学という学問をやっている原点はここにあるような気がする。僕の身体に森田さんの言葉が残っているのかもしれない。













(人名は仮名です)


2017年4月8日土曜日

不眠と異国感

男は目を覚ます。時計の針は4時を指している。外は薄ら明るくて、男には明け方なのか夕方なのかわからなかった。とりあえず起きてみると雨音が聞こえる。かなりひどい雨だ。昨晩はうまく寝つけず、明け方まで起きていたように思うから、きっとこれは夕方なんだろう。

雨が降り続く。男の部屋は木造二階建ての二階で、広さは大体京間の6畳。ベッドを置いているから実質4畳半くらいといったところか。長屋のような、その建物は築100年
を超えていて、趣き深い(古い)。いつもなら朝の鶏の鳴き声(うるさい)で目覚めるのだが、ここ一週間ほど眠れないので、鳥の声を合図に気を失うといった具合だ。

半分寝ぼけながらシャワーを浴びると何か食べなくてはいけない気がしてくる。外に出よう。その辺に落ちている黒いスラックスをはき、暗い臙脂色のボタンダウンを着る。暖かくなってきたのに、暗いなと思い、明るい空色のオックスフォードシャツに変える。

外に出てみると新入生歓迎会(新歓)の季節だからか20人くらいのヒトの群れが歩道の東大路のあちこちに発生している。雨で灯り始めた街燈が霞む。体は朝、寝起きなのに世間は真っ暗で不思議な感覚だ。そう、時差ボケみたいだなと感じる。なんだか寝起きでフアッとしたまま深夜の空港を出て、連絡バスに乗り、中央駅につき、見知らぬ街のしっとり濡れた石畳の上を、宿が見つかるかなと不安に思いながら歩くあの感じ。僕にとっては深夜にフランクフルトに降り立ち、ルクセンブルクの町に向かう小さなバスに乗り込み、終点の駅で降りたはいいが、止まる予定のホステルの場所がわからない。あの何とも言えない体の疲労と、時差とがあいまった異国感を毎日住む町で味わった。不眠のおかげで。


人によって遠くに来たなと感じる部分はそれぞれだと思う。言語、人間の顔、食事、気候、雰囲気…でも僕にとっては、「時差感」とでもいうべき身体の浮遊感、まるで昨日に身体だけを置いてきて、脳みそだけここにある感じ...こそが、遠くに来たなと感じさせるんだと思う。

2017年4月2日日曜日

体温

温度に敏感になれる寒い季節が好きだ。

とくに体温は人間がそこにある、いるということを言葉なしに教えてくれる

体温が伝わることは一番の承認だったりもする

そしてある種の暴力、抗いがたい力の表象としての体温も


なるほどこうふわっとした抽象的なことを書いても伝わってないような気がする



2017年3月5日日曜日

全てはあいまいさと矛盾の中に

この気持ちを言葉にしたいと富に願う

しかしながら、言葉にしてしまえば、その気持ちが本当ではなかったように思う

この形を言葉にしようと試みる
しかしながら、言葉にしてしまえば、その形を完全に表現していないように感じる


ずっとかくれんぼしていたい。でも隠れたまんまでは本当に忘れ去られてしまう。
そして自分さえもかくれんぼしてた事を忘れてしまうのかもしれない。それはそれで幸せなのだろうか。


この人間と誠実に接したいと考える
しかしながら、その場しのぎの保身を試みてしまう。


嘘が嘘で嘘を覆っていく。真実が真実で真実を削っていく。その先にある形は何?
それは嘘?真実?それともその間の何か?



本当の事を話しつづけるのは難しい。本当の話は面白おかしくないから。
でも本当の事を話して面白い事がいいことなのかな。

2017年2月27日月曜日

時間が早すぎる

この一ヶ月本当に何もしてなくて、何もできてなくて、いろいろとチャンスをミスしてて、何にもうまくいってないように見えて、でもそれって自分がまったく何も努力していないだけで、でも何を努力するのかわかんなくて、そんなことは言い訳に過ぎなくて、多分目の前にあることを、目の前にある本を読めばいいだけだと思うのだけど、いろいろとだめで、だめって言って逃げてるだけで、本当に意味わかんなくて。

2017年2月19日日曜日

ああ

携帯を北海道の雪山においてきてしまった・・・

探したけどパウダースノーすぎて見つからなかった・・・


春になったら迎えに行こうかな・・・



もうすぐ電池が切れて、現在地情報もわからなくなるでしょう・・



なんか携帯を看取る気分だわ・・・

2017年2月11日土曜日

このblog

実はこのblog、高校生の時からやってるんだが、どうしてこうも無駄なことを公共空間に垂れ流すのがこんなにも好きなんだろう…

2017年2月10日金曜日

私の周りで悩んでいる人



 かなわないというエッセイを読んだ。
私の周りで悩んでいる人の多くの人が陥っている困難に、筆者も面しており、その困難を少しずつ克服しようとする部分が面白かった。

224ページから始まる、漫画家の先生とのカウンセリングのようなチャットのやり取りの部分である。

筆者は漫画家とのやり取りから、自分の生きづらさや子育ての不安が、自己肯定感のなさから生まれていることに気がついていく。
そしてその自己肯定感のなさは幼少期の母娘関係から生まれたと漫画家は分析していく。この世にいていいんだという根本的な自己に対する肯定感を母親から得られなかったのだと。


「自分を愛するように、他者を愛する」という言葉が本の中にあった気がする。


よく聞く言葉だけど初めて実感を伴っって理解できた気がする。

本ではインナーチャイルドによる自分の幼少期の振り返りなど興味深い(カウンセリング業界では当たり前なのかも)事象があるんだけど、まあいいです。


職業でもある自分の写真作品の良さが、最近、わからなくなってきた筆者を漫画家が諭して、
「あなたのよさはあなたが知っています。…あなたは自分の写真を全く信じていないので、コンテストや偉い人の評価がよければいい写真だ!とおもい、ダメ出しされればダメなんだ!と思うようなもんです。評価が低くてもいいものはいい!そうこっそり思ってることが自信です。…あなたは目の前の人が喜ぶ写真だけに価値があるんだといってるわけです。」

あーそうですね。

自信か…

私はそれなりに自己肯定感があるほうだと思うが、すぐに他人や情報に影響される。そして目の前の人を喜ばせようとして二枚舌のようなことをしてしまったりもする。


2017年1月26日木曜日

気にしないことは軽視していること?

私が最近、ある質問された時に
「私は気にしないよ」と軽い気持ちで言ってしまい、あ、これってよくないかも?とふと感じることが度々あった。

I don't mind(かまいませんよ)  とI don't care(どうでもいいよ)を注意して使わなければと思った、と言えば良いだろうか。

つまり、私の言い方では相手が「どうでもいいよ」と聞こえてしまったかも、と恐怖を感じたのである。私自身もその事柄を尊重してはいるのだが、「ある意味」どうでもいいことだと常々感じているのでつい、食い気味に「私は気にしないよ」と即答してしまい、なんか感じ悪かったなと思ったのである。

 抽象的に書いていると大変分かりにくいので、個人がわからない程度に具体的に書いておこう。というか以下のような場面に3度くらい直面していて、どれもそういう対応してしまったのでなんか個人的に腑が落ちないのである。



ゲイの友人に「そういえば俺ゲイなんだけど」と言われた時である。つまりカミングアウトされた時ってことかな?

個人的な心情を詳しく描写すれば、友人のことはゲイでもそうでなくても友人だし。個人的にも異性愛至上主義者ではない、のでそういう本質的な次元においても相手がどんな対象を性的に嗜好してもOKと思ってる。

ここまで書くとまた、「あやしいな」と思ってしまう。 なんだ「OKと思ってる」って。
 とんだ偉い奴だなお前は。

BTW
自分があまりに気にしていない事柄(相手のsexual orientation)に対して食い気味に「僕はどっちでもかまわないよ」といってしまった事に後悔している。なぜなら相手にとってはその問題が(カミングアウトするか否か)とても重要で大事な判断だったかもしれないから。

ここまで書いて言い訳みたいな事を書いておくと、私はマジョリティーの中にいる無関心で無知なマジョリティー側の人間ではないと思っている。例えば日本人がマジョリティーの世界(日本)で行きている日本人は自身の日本人性に無自覚だといったような事(日本人を異性愛に置き換えてもよい)。まあ思ってるだけだけど。

2017年1月8日日曜日

そう、それはちょうど季節のよう

そう、それはちょうど季節のよう。


春、一斉に芽吹くとき、すべてが連鎖的、加速度的に動く。



冬、世界は未だ見ぬ春のため静まりかえり、彼は一人だけ遺されたかのように感じる。



でも、確実に時は進む。


そして春が来る。

春は嫌いだ