最近、理性的ではないどうしようもない気持ち(感情ともいう)に悩まされる日が多い。
わかりやすくいえば、好き嫌い、嫉妬心、焦燥感などだろうか。
私はこれまで、こういった感情を滅することで比較的、心が平安な状態で生きて来たと思っている。
感情をいだきそうになったら、心をないものとして、理性的な価値判断だけで行動しようと努めてきた。
2015年10月28日水曜日
2015年10月23日金曜日
人類学の意義
今日久しぶりに学部の基礎的な授業に参加した。
そこでは人類学の教授がふと、人類学と地域研究の違いについて話していて、忘れてはいけないことだと思ったので、ここに記しておきたい。
人類学とはミクロな事象、固有の現象、「彼ら」のやっていることを通して人間の本質に迫ることである。
また、他の社会科学と大きく異なる点は、被調査者である「彼ら」の目線から世界を見たら何がみえるのかという点に重きをおいているということである。
この二つのことは本当に基本的で、何度も言われることだけど、大事なことなので、心に刻んでおきたいと思った。
そこでは人類学の教授がふと、人類学と地域研究の違いについて話していて、忘れてはいけないことだと思ったので、ここに記しておきたい。
人類学とはミクロな事象、固有の現象、「彼ら」のやっていることを通して人間の本質に迫ることである。
また、他の社会科学と大きく異なる点は、被調査者である「彼ら」の目線から世界を見たら何がみえるのかという点に重きをおいているということである。
この二つのことは本当に基本的で、何度も言われることだけど、大事なことなので、心に刻んでおきたいと思った。
2015年10月22日木曜日
ウラとオモテ
<この記事は2015年6月に書いたものです>
当然と言ってしまえば当然なのだが、人が自分に見せる姿と違う姿を目にすることは、色んな意味でショッキングである。
それはいい意味でショッキングであることもあるし、悪い意味のときもある。
まあ、いい、わるいっていうのも個人的な問題であって、社会的にどうこうってことではないんだがね。
しかし、なぜ私達は一貫性を求めるのか?
裏表がない人とは「いい」人なのであろうか?ちょっとそこは分からない。
もし、明らかに自分に接する時よりも、幾分かリラックスした表情をしていたり、話すトーンが違ったりすると、なんだか自分が軽視されたような、結局蚊帳の外だったのかよ的なつまらない感情がわいてしまう。
多分、正解は、「あ、使い分けていらっしゃるんだな」と、思えばいいんだと思う。
他の人に向ける態度を自分にも向けてほしいと思うことは甚だ自分勝手なものである。
ここまで言って、でも、裏表がない、誰に対しても平温に見える人に対して安心してしまう。
それは私が損をしていないことに対する証明を得るだけの事なのかもしれない。
だって、誰に対しても平温なんて人間としてちょっとありえないし、ともすれば感情のない人ということになってしまう。ただそれが、どの程度の差なのか、それが表面化しやすいのか、その差なのである。
自分はとことん嫉妬深いなと笑ってしまう。
当然と言ってしまえば当然なのだが、人が自分に見せる姿と違う姿を目にすることは、色んな意味でショッキングである。
それはいい意味でショッキングであることもあるし、悪い意味のときもある。
まあ、いい、わるいっていうのも個人的な問題であって、社会的にどうこうってことではないんだがね。
しかし、なぜ私達は一貫性を求めるのか?
裏表がない人とは「いい」人なのであろうか?ちょっとそこは分からない。
もし、明らかに自分に接する時よりも、幾分かリラックスした表情をしていたり、話すトーンが違ったりすると、なんだか自分が軽視されたような、結局蚊帳の外だったのかよ的なつまらない感情がわいてしまう。
多分、正解は、「あ、使い分けていらっしゃるんだな」と、思えばいいんだと思う。
他の人に向ける態度を自分にも向けてほしいと思うことは甚だ自分勝手なものである。
ここまで言って、でも、裏表がない、誰に対しても平温に見える人に対して安心してしまう。
それは私が損をしていないことに対する証明を得るだけの事なのかもしれない。
だって、誰に対しても平温なんて人間としてちょっとありえないし、ともすれば感情のない人ということになってしまう。ただそれが、どの程度の差なのか、それが表面化しやすいのか、その差なのである。
自分はとことん嫉妬深いなと笑ってしまう。
2015年10月21日水曜日
手紙というもの
文章を書くということ、とても責任の重いことである。しかし、人間の歴史においては大変特殊な行為ではないだろうか。人間はかつて無文字社会に生きていたとすれば、口から発せられる音によるコミュニケーション、つまりその場ですぐに消えてしまうやり方を基本に人間は生きてきたといえるのではないか。要するに、書き言葉ではなく話し言葉が人類の基本なのではないか。
それに対して、一定時間残り続けるものに文字を書き、人に伝えるということは比較的新しいやり方である。口からでる言葉ならば瞬間瞬間で消えてしまうが、文字は残り続ける。つまり発信者の身体から離れたところ、発信者の文脈から乖離した場所で意味を残し続けるものなのである。
手紙を書いている瞬間は、そのときの気持ちや感情を、そのとき思ったまま書き付ける。しかし、いったん書き終えてしまうと、そのとき思った気持ちではなくなっている自分に気がつくのである。そしてその手紙を読むという行為も、書き手の文脈からは離れた場所で行われるのである。よっぽど読み手に書き手への配慮がない限り、どのような背景で、どのような気持ちで文章を書いたのかな?などと読み手は想像しないし、読み手は書かれた文章しか見ることができないので、そのような書き手の背景はわかるわけがない。読み手は書かれたものから判断するしかないのだ。
そのため、手紙を書くこと、文章を書くことには相当の責任と気概が求められると思う。文字はとても強力なので、いとも簡単に相手のことを傷つけたり、文意を誤解されたりしてしまう。そして文章自体は書き手のイマ・ココの文脈から乖離しているのに関わらず、書き手は文章に対して責任を持たなければならない。
手紙に封をする行為はそのことを象徴しているかのようだ。
それまで書き手の手に密着していた便箋を、封筒に入れ、糊付けをすることで、書き手の文脈から完全に離れ、手紙というものが完成する。
書き手は封筒によって隔てられてしまう言葉に責任を持たなければならない…
僕は手紙を書くことは結構好きだが、封をする段階になって毎回躊躇する。それは手紙を書くときに下書きを書いたり、推敲しないことが問題なのかもしれない。いや、たぶんそれがかなりの問題であると思う。ああ、もっと推敲したほうがいいのだろうな。自分にとっても相手にとっても。
ああ、推敲…
それに対して、一定時間残り続けるものに文字を書き、人に伝えるということは比較的新しいやり方である。口からでる言葉ならば瞬間瞬間で消えてしまうが、文字は残り続ける。つまり発信者の身体から離れたところ、発信者の文脈から乖離した場所で意味を残し続けるものなのである。
手紙を書いている瞬間は、そのときの気持ちや感情を、そのとき思ったまま書き付ける。しかし、いったん書き終えてしまうと、そのとき思った気持ちではなくなっている自分に気がつくのである。そしてその手紙を読むという行為も、書き手の文脈からは離れた場所で行われるのである。よっぽど読み手に書き手への配慮がない限り、どのような背景で、どのような気持ちで文章を書いたのかな?などと読み手は想像しないし、読み手は書かれた文章しか見ることができないので、そのような書き手の背景はわかるわけがない。読み手は書かれたものから判断するしかないのだ。
そのため、手紙を書くこと、文章を書くことには相当の責任と気概が求められると思う。文字はとても強力なので、いとも簡単に相手のことを傷つけたり、文意を誤解されたりしてしまう。そして文章自体は書き手のイマ・ココの文脈から乖離しているのに関わらず、書き手は文章に対して責任を持たなければならない。
手紙に封をする行為はそのことを象徴しているかのようだ。
それまで書き手の手に密着していた便箋を、封筒に入れ、糊付けをすることで、書き手の文脈から完全に離れ、手紙というものが完成する。
書き手は封筒によって隔てられてしまう言葉に責任を持たなければならない…
僕は手紙を書くことは結構好きだが、封をする段階になって毎回躊躇する。それは手紙を書くときに下書きを書いたり、推敲しないことが問題なのかもしれない。いや、たぶんそれがかなりの問題であると思う。ああ、もっと推敲したほうがいいのだろうな。自分にとっても相手にとっても。
ああ、推敲…
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