2019年1月21日月曜日

基準点

命の恩人であり、基準点のような友人と定期的に会う




その人と会うと、なぜだかモヤモヤしたり、生き方を再考したくなる。それがなぜなのか、ちょっと考えてみたい。





基準点とは「地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成され、地図作成や各種測量の基準となるものです。」(国土地理院Webサイトより)


地図を作ったり、測量を行うには今いる場所を知る必要があるのだが、それを行うために「複数の」基準点からの相対的な位置を計測し、自分の場所を特定する。ざっくり行ってしまえば、なんの目印もない場所をA基準点から何メートル、B基準点から何メートルと示すことで自分の場所を知ることができる。


人間に関してもそのような観測は可能ではなかろうか。私は人間とは他の人間とのリレーション(関係)の中で生きていると捉えている。そのように考えた時、ある人間(人間集団)を表現するためにはその人間の周りの関係性を描くことが重要でかつ誠実な方法だと信じている。


自分がどこにいるのか知るためにも「基準点的な他者」との違いを探ることで明らかになることは多いのではないだろうか。(そればっかりしていると疲れるから毎日はしないほうがいいと思うけど)



友人とどんな時に喜びを感じるのか話し合った際、友人は作成した成果物が多くの人に閲覧され、より良い評価がなされた時に嬉しい。と語っていた。


それを聞いて、私の場合「多くの人」

には興味があんまりなく、特定の個人に必要とされる方が嬉しいのだなと思った。


私はいつもの悪い癖で、主題を曖昧にする別の話をたくさんしてしまい、友人とはあまり深くこのことについて議論できなかったが、もう少し深掘りしたかったな…



このように、友人はなんらかの基準点を与えてくれるので、そこを比較することで自分が見えてきたりもする。



モヤモヤについても考えてみよう



モヤモヤする理由はなんとなくわかった。気を許しすぎて自分の論理を相手に要求する、自分の中の論理を説明せずに相手に展開してしまう為である。



簡潔に言えば親しき仲にも礼儀あり、を忘れずにいれば、モヤモヤすることはないだろう。




例えば、私はアイロニー大好き人間であるが、自分の中でアイロニカルな表現だと思って好きな言葉であっても、説明なく会話に投入されると、相手はアイロニーとして認識できない。


国税を払うことが好き!国税を払おう!というアイロニカルな表現が個人的に気に入ってるが(皮肉なので、前提として国税とはなぜ存在せねばならんか、喜んで払っていいものなのかというディスカッションが存在する事を含意している)、道路整備のために国税を払うべきと発言してしまったらそのままの意味としてしか、相手は理解できず、私の事をニューディール政策主義者だと思ってしまうかもしれない。それは不本意である。


また、気を許しすぎていると、相手の話を聞かなくなるとういう点に関しても、後から後悔することが多い。


普段の社会生活では人の話をひたすら聞いて、パラフレーズしてなんとか生きているので、自分の事を語る機会があまりない。



気を許した友人だと、心の中に浮かんだものすべてを話してしまい、かなり支離滅裂なことになる。なので後から考えると、どう考えても自分勝手な発言だったな、相手の気分を害しただろうなと考えてしまう。


その続きとして、会話を盛り上げたいがために、人を下げる笑いを取ろうとしてしまう。そして大体そのジョークは笑えない。


あぁ罪深い。


そういう時はステレオタイプ、偏見、ラベリング、見下しを含んだ事をたくさん言ってしまう…


友人と別れた後、自分は本当にレイシストだなと落ち込む…



各種の人類に対してリスペストフルで生きていきたいのに行動が全く伴っていない…



あぁ…




基本的に僕はかなり自分勝手な人間ではあるが、上記のことを長文ラインで当事者に送ってしまうと、相手に赦しを強要するかのようで、自分勝手さが極まる気がするので、このようにブログにしてみた。




どうだっただろうか?




この方法の方がより自分勝手なんだろうか…




あぁ…メンヘラ感あるな…笑