2023年9月20日水曜日

過ぎたるは及ばざるが如し

 贈与というものは大変センシティブで慎重に行う必要がある。

贈与は一つでも間違うと、戦争や災厄の原因となるため、様々な社会で厳格なしきたりやルールが敷かれていることが多い。集団によって大事に思う点が異なるため、ルールが異なり、独自のプロトコルが成立していくことになる。

その交換財が重要であればあるほど厳格なルールが制定され、運用される。

その禁忌が侵されることによって(越境することによって)それまで築いて来たことが一瞬にして崩されてしまう可能性が孕んでいる。

財を受け取りすぎることによる、返礼の不足による衝突は容易に想像できるが、贈与をしすぎることによって関係性が崩されてしまうことも多々ある。

なぜなら、贈与とは与える側から一方的に贈与されるため、受け取り手にはあまり選択肢がないためである。積極的な贈与にさらされてしまった受け手はその贈与を受け取るか、拒否するかの2択を迫られてしまう。

多すぎる贈与を断ったとしても、断ったという事実が残ってしまう。一方で多すぎる贈与を受け取った場合は、多すぎる返礼が期待されてしまい(それは意図しなくても)、返礼できない劣位に立たされる。

何らかの特権を持っているものはその特権性や加害性に自覚的であれとよく言われるが、それは何かを奪ったり、何かを従えたりするだけではない。多すぎる贈与によって他者を支配することもできるのである。

しかも、それは外面的には気前が良いように見えるから厄介である。それを断るには社会的な抵抗があるだろうし、自身の良心も傷つけられるかもしれない。

そのため、剥奪したり暴力を与えるよりもずっと陰湿でパワフルな行為の可能性があるのだ。

この与えすぎることを防ぐにはどうすればいいのだろうか。そこに言語があるのではないか。

言語ない状態だと、与え過ぎたりもらい過ぎたりしていてもなかなかそこを脱することはできないが、事前や事後的に交渉が行うことを可能にすれば互いに納得のいく贈与の受け渡しが可能になるかもしれない。

その時に重要なのは、双方に言語の回路が開かれていることである。なぜなら片側だけであれば、それはプロパガンダだし、洗脳になってしまう。双方が同等の言語を交換できることができれば、過ぎてしまった贈与を調整することは可能かもしれない。いや、可能であって欲しいと私は願っている。