2023年11月3日金曜日

信念と勇気を習練し、自分の言葉を見つけていく

理にかなった信念の根底にあるのは生産性だけである。信念に従って生きるということは、生産的に生きることなのだ。したがって、他人を支配するという意味での力、すなわち権力を信じたり、権力を用いたりすることは、信念とは正反対のことである。現在すでにある力を信じるということはまだ実現されていない可能性の発達を信じないことであり、現在眼に見えるものだけに基づいて未来を予想することだ。

これはproductivityの訳語としての「生産性」だろうか。生産性とは工場で効率的に製品を作るということだけでなく、「創作物を作ることを可能にする能力」とも表現できるはずだ。そう考えると、自分から何かを(外から見てわかるもの)生み出すことが大切であると読める。私は「権力」に縋っていた。それは自分の身体の大きさだったり、まなざしだったり、身体的・思想的特権性が発動する権力である。そのようなものをこれからは手放して軽やかになりたい。そのために今、行動しているのだと思う。


 愛されるには、そして愛するには勇気が必要だ。ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。


この先の文章にこの勇気はムッソリーニのいう「危険を犯して生きよ」のような勇気ではないと続く。それは蛮勇であり、愛の勇気とは異なると。私は蛮勇でまみれていた。思い切ってジャンプするとはまさにその字の通り、身体を宙に投げ出すということだ。しかしそれは向こう見ずなジャンプではなく、信念を持って、着地点を見定めながら飛び立つということだ。


信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るのかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているのかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。

 

「信念と勇気の鍛錬」が足りてないのだと思う。最近自分のずるさを確認したのは、私が電話が嫌いであるということの言い訳である。それは解釈を相手に委ねられないという弱さ、信念のなさからきているとも言える。自分が全力で作り切ったメッセージがあり、それに信念がこもっていれば、電話であろうが、zoomであろうが、対面であろうが不安に思わないはずだ。

しかし、そのような信念がないから、対面だとある種の「権力」を使って相手を説得できると考えるずるい気持ちがあるから、「電話が苦手」などとのたまう。己の信念を持って言葉を紡ぎたい。その上で他者との摩擦があれば、初めて自分の輪郭がはっきりしてくるのだろう。


ある人から、今日言われた言葉

「Yくんもエスノグラフィー書いた方がいいよ。何かを書くということは必ず自分と向き合うということになる。他人の言葉ではなく、自分の言葉を見つけていく作業。その過程で、考えていることや信念を少しずつ外に出していけるようになる。考え抜いて自分だけの言葉を世に出した時、必ず伝わる人がいる。しかし、他人の言葉を寄せ集めて整形しただけではどこにも届かない。小説とも、詩とも異なりエスノグラフィーは他者を書くから責任が生じる。そのような責任からしか生まれない言葉がある」

この身体を変えていくためには自分の言葉で書き始めたい。書くことから始まり、自分に向き合い、軽やかに考えや信念を外に出していく。そうなっていきたい。


人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。

 

参考:エーリッヒフロム『愛するということ 新訳版』p187-190

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