2023年11月5日日曜日

水浴びをして5日目

11月1日に行った整体院で、朝の水シャワーをすすめられて継続して5日になった。

薦められたことはすぐにやってしまうのは、私の良い点でもあり危うい点でもある。

最初の日は手足と頭にしか水をかけられなかったが、最近は全身に浴びられるようになってきた。整体の人は3分〜5分浴びると言っていたが、まだそこまでは辿り着いていない。

冷水を浴びると体が逆に温まり、とても頭がはっきりするのはわかってきた。もう少し続けてみよう。


今朝は水を浴びている時に宇多田ヒカルの「PINK BLOOD」の旋律が向こうからやってきた。歌詞のことはあまり覚えていなかったが、改めて聴いてみると、正視しなければいけない内容だった。託宣か。

そして、このアルバム「BAD MODE」の曲順に対する解像度が上がった。そういうことか…


惑星モデル(太陽の傾きで便宜的に24時間に区分する時間)ではない時間の捉え方をすると、世界の輪郭が広がっていくような感覚がある。


今日は仕事をたくさんした。というか、締め切り前に駆け込んだだけなのだが頭がパンクしそうだ。こんなことを何歳まで続けるんだろう。まだまだ修行の身なのかなぁ。


最近会う人会う人に元気がないと思われるので、なんだか申し訳なくなってきた。自分勝手な身体、思想改造に疲れているだけなのに。


今日はそんな私に花束をくれた人がいた。ありがとう。嬉しさで泣きそうになる。私にもちゃんと感情があったのだ。これを少しずつ表に出す練習をしていきたい。

2023年11月4日土曜日

痛みに対して鈍い私

私は痛みに対して鈍い。虫刺されもあまり痒いと感じないし、親知らずも歯医者が驚く段階になるまで、痛みを感じず抜くのが少し遅れた。交通事故にあった時も一週間足らずで普通の生活を送れるほどになってしまった。

肩こりなどで整体に行く時も「なぜこれほどになるまで…」と言われたりもする。これまでは痛みを感じないことは便利だとさえ思っていたが、何かを失っていると最近思い知った。

自分の痛みに鈍感だと、他者の痛みにも鈍感になってしまう。一番身近な自然である体に鈍感だと、もっと大きな自然にも鈍感になってしまう。どんどん言葉や概念が優位な活動になっていってしまう。それは、私にとっては不本意だ。

でもなぜ、痛みに鈍感になってしまったのだろう。子供の頃はちょっとやそっとのことで泣いていたはずなのだ。『体の知性を取り戻す』 という本に少しヒントがありそうだった。


決まり切ったメッセージを実行する。それが人生を送ることだ。そういう考えを疑いもしなくなっている暮らしとは、実のところ頭が思い描くイメージの枠の中に体を追い込むことでしかない。その結果、体はどんどん強張っていく。頭と体のあいだで自分が板挟みになり、やがては緊張の度合いの高まった体として日常を送る。(37−38)

感じている違和をそのまま出すと奇矯な人だと思われるので、できるだけ感じないようにして過ごすことに決めた。センサーを眠らせ、スイッチを切るように。(53)

我慢すればするほど正しいし、努力している証だという倒錯した世界に入っていくと、体の声が聴こえなくなる。(61)


私はおかしな(クイアなと言ってもいいかもしれない)自分を否定されたくない気持ちが強く、その場その場の主流派が発するメッセージをあたかも自分のメッセージかのように思い込み、それに体が拒否反応を示したとしてもそれを感じるセンサーを切ることで体を従えるトレーニングをずっとやってきたように思う。

その結果、悲しみは一年遅れてやってきて、怒りは感じず、痛みに鈍い体になってしまっていた。自分が鈍いだけなら、必ずしも変える必要はないのかもしれない。鈍く何も感じない怠惰な都会人として生を全うするやり方もある。

しかし、それでは人を傷つけてしまう。大切に思う人こそ、近くにいる人こそ、自分の鈍さによって傷つけてしまう。


何かがうまくいかないとき、「だからダメなのだ」「だから向上しなくてはいけない」と思いを新たにするだろう。これはいまの自分を否定するということだ。そのことで確実に自分が見えなくなる。(138)

身体で考えられない自分を変えなくては!と思っていたところで、著者の尹さんは諌めてくる。「〜しなければならない」「〜するべきだ」ではなく、いまの自分の身体に生起していることを見よと。

頑固な考えは一方向に進むことしか念頭になく、転身さえすればどこへでも進めるのだという自由を忘れている。端的に言えば、そこには余裕がないのだ。余裕がないのは楽しくない。思考は遊びがないとうまく転がっていかない。(154-155)


私は比較的柔軟な人間だと思い込んでいたが、最近長年の友人に「あなたは頑固だ」と直球で言われた。私は他者から何かを言われなければ気がつけない、それほどに頑固なのだろう。

こんなことを考えつつ、本日訪れた富士山麓で不思議な人と出会った。彼とエーリッヒフロムの愛について語ったり、パットメセニーのことや、頭ではなく身体から知っていくことの重要性を語り合うことができた。ここしばらく、ざわめいていた心の海に凪の時間がようやく訪れた気がする。体と感覚を開いておけば、適切な場とタイミングに導かれていく。

彼は「エネルギーを循環させるためには、場を捉えよ」と言って去っていった。





引用:尹雄大『体の知性を取り戻す』 

2023年11月3日金曜日

信念と勇気を習練し、自分の言葉を見つけていく

理にかなった信念の根底にあるのは生産性だけである。信念に従って生きるということは、生産的に生きることなのだ。したがって、他人を支配するという意味での力、すなわち権力を信じたり、権力を用いたりすることは、信念とは正反対のことである。現在すでにある力を信じるということはまだ実現されていない可能性の発達を信じないことであり、現在眼に見えるものだけに基づいて未来を予想することだ。

これはproductivityの訳語としての「生産性」だろうか。生産性とは工場で効率的に製品を作るということだけでなく、「創作物を作ることを可能にする能力」とも表現できるはずだ。そう考えると、自分から何かを(外から見てわかるもの)生み出すことが大切であると読める。私は「権力」に縋っていた。それは自分の身体の大きさだったり、まなざしだったり、身体的・思想的特権性が発動する権力である。そのようなものをこれからは手放して軽やかになりたい。そのために今、行動しているのだと思う。


 愛されるには、そして愛するには勇気が必要だ。ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。


この先の文章にこの勇気はムッソリーニのいう「危険を犯して生きよ」のような勇気ではないと続く。それは蛮勇であり、愛の勇気とは異なると。私は蛮勇でまみれていた。思い切ってジャンプするとはまさにその字の通り、身体を宙に投げ出すということだ。しかしそれは向こう見ずなジャンプではなく、信念を持って、着地点を見定めながら飛び立つということだ。


信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るのかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているのかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。

 

「信念と勇気の鍛錬」が足りてないのだと思う。最近自分のずるさを確認したのは、私が電話が嫌いであるということの言い訳である。それは解釈を相手に委ねられないという弱さ、信念のなさからきているとも言える。自分が全力で作り切ったメッセージがあり、それに信念がこもっていれば、電話であろうが、zoomであろうが、対面であろうが不安に思わないはずだ。

しかし、そのような信念がないから、対面だとある種の「権力」を使って相手を説得できると考えるずるい気持ちがあるから、「電話が苦手」などとのたまう。己の信念を持って言葉を紡ぎたい。その上で他者との摩擦があれば、初めて自分の輪郭がはっきりしてくるのだろう。


ある人から、今日言われた言葉

「Yくんもエスノグラフィー書いた方がいいよ。何かを書くということは必ず自分と向き合うということになる。他人の言葉ではなく、自分の言葉を見つけていく作業。その過程で、考えていることや信念を少しずつ外に出していけるようになる。考え抜いて自分だけの言葉を世に出した時、必ず伝わる人がいる。しかし、他人の言葉を寄せ集めて整形しただけではどこにも届かない。小説とも、詩とも異なりエスノグラフィーは他者を書くから責任が生じる。そのような責任からしか生まれない言葉がある」

この身体を変えていくためには自分の言葉で書き始めたい。書くことから始まり、自分に向き合い、軽やかに考えや信念を外に出していく。そうなっていきたい。


人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。

 

参考:エーリッヒフロム『愛するということ 新訳版』p187-190

2023年11月2日木曜日

三角測量

以前もこのブログでは他人との距離感を測量に例えたことがある(注1)。ただ、この時の書きぶりだと、二点間の差異を計測しているだけのような気がする。しかし、基準点が真価を発揮するのは三角測量を行うときだ。


三角測量において、「第三の点」はとても大切だ。


なぜなら、二点間の距離や高さを測るためにはその二点だけでは、正確に測ることができないためである。障害物がないところならレーザーや巻き尺で測ることもできるかもしれないが、障害物があったり、距離がある二つの点の相対的な位置関係を捉えるためには互いの位置から見える「第3の点」との距離を測り、三角関数によって二点の距離を測る必要がある。


「第3の点」としてよく使われるのが三角点なのである。


三角点は山の頂につくられることが多い。山頂は平地の至る所から目視できるためだ。

人間同士の距離感をはかり続けるためにも三角点が必要なのだと思う。


共にまなざす同じ点がある時、適切な距離を保つことができる。


山頂を見ていなければ、互いに近づきすぎていたり、思ってもない方向に進んでしまう。遭難してしまうこともあるだろう。


私は遭難している。


もう一つ、三角測量の重要なポイントは、「同じ」三角点を参照しなければならないというところだ。

三角点は無数にあるが、同じものを参照しなければ四角測量になってしまい、適切な距離ははかれない。だから、事前にどこを三角点として採用するのかを決めておく必要があるのだ。



私はそんなことも忘れていたのか。

もしくは、霧が濃くて山が見えなかったのか。



秋晴れの空の下ならば、三角点を見定めることができるのだろうか。

そうであってほしいと祈りつつ、山を見る。


注1:

測量や地図への興味はおそらく、私の父が測量士だった事とも関係している。週末のたびに各地の一等三角点を見にいくために、山に連れられていた。

家には古い地形図が散乱しており、暇な時は地図を見ながら、いったことのない街の生活を夢想したり、いったことのある街の情景を地図を見ながら思い出すのが好きだった。

2023年11月1日水曜日

How do I feel myself?

I feel so far from myself and I

How do I feel the relationship between you and me

How can I expiate?

孤独の先にしか本当に他者とは出会えないということ。

孤独を無理に埋めるように他者と出会ってしまうと、そこには自分が映っているだけ。鏡になってしまう。

他者を他者としてまなざすためには孤独に耐え、孤独の肩越しに他者を見なくてはならない。


2023年10月31日火曜日

孤独の先に出会う他者

他者との出会い方にはふた通りある。

洞窟の入り口から差し込む光によって映し出された自分の影を「他者」と錯覚するように出会うやり方と

自分の孤独に向き合い、自分を縛っていた縄を外し、洞窟を出て、太陽の下で他者と出会うやり方。


前者のように出会うやり方だと、他者の顔をみているようで、毎回自分をみている事となる。

洞窟の壁に映った影を見て、その影の動き、表情を感じ取り、一日が終わる。それは自分の影なのだが、自分が縛られていることに気がつかないので、影が自分のものだとも気がつかない。

それだけならまだいいが、自分の思ったような影にならないと、その影を攻撃する。

影を捕まえたくて手を伸ばすが、手には手枷がかかっている。

そんなことはもう懲り懲りだ。

自分のからだを縛っているものは何か、実は縛られていないのに洞窟の入り口から目を背けているだけなのか。影を観察する前に自分のからだを調べる必要がある。

手枷の鎖はすっかり腐っているのかもしれない。


着想
洞窟の比喩(プラトン『国家』)

2023年9月20日水曜日

過ぎたるは及ばざるが如し

 贈与というものは大変センシティブで慎重に行う必要がある。

贈与は一つでも間違うと、戦争や災厄の原因となるため、様々な社会で厳格なしきたりやルールが敷かれていることが多い。集団によって大事に思う点が異なるため、ルールが異なり、独自のプロトコルが成立していくことになる。

その交換財が重要であればあるほど厳格なルールが制定され、運用される。

その禁忌が侵されることによって(越境することによって)それまで築いて来たことが一瞬にして崩されてしまう可能性が孕んでいる。

財を受け取りすぎることによる、返礼の不足による衝突は容易に想像できるが、贈与をしすぎることによって関係性が崩されてしまうことも多々ある。

なぜなら、贈与とは与える側から一方的に贈与されるため、受け取り手にはあまり選択肢がないためである。積極的な贈与にさらされてしまった受け手はその贈与を受け取るか、拒否するかの2択を迫られてしまう。

多すぎる贈与を断ったとしても、断ったという事実が残ってしまう。一方で多すぎる贈与を受け取った場合は、多すぎる返礼が期待されてしまい(それは意図しなくても)、返礼できない劣位に立たされる。

何らかの特権を持っているものはその特権性や加害性に自覚的であれとよく言われるが、それは何かを奪ったり、何かを従えたりするだけではない。多すぎる贈与によって他者を支配することもできるのである。

しかも、それは外面的には気前が良いように見えるから厄介である。それを断るには社会的な抵抗があるだろうし、自身の良心も傷つけられるかもしれない。

そのため、剥奪したり暴力を与えるよりもずっと陰湿でパワフルな行為の可能性があるのだ。

この与えすぎることを防ぐにはどうすればいいのだろうか。そこに言語があるのではないか。

言語ない状態だと、与え過ぎたりもらい過ぎたりしていてもなかなかそこを脱することはできないが、事前や事後的に交渉が行うことを可能にすれば互いに納得のいく贈与の受け渡しが可能になるかもしれない。

その時に重要なのは、双方に言語の回路が開かれていることである。なぜなら片側だけであれば、それはプロパガンダだし、洗脳になってしまう。双方が同等の言語を交換できることができれば、過ぎてしまった贈与を調整することは可能かもしれない。いや、可能であって欲しいと私は願っている。

2023年8月25日金曜日

変えられていく

 変えられていくという感覚はどこから来るのか。

認知認識行動行為

茹でガエルの例を出すまでもなく、人は変化にはなかなか気がつかない

変化とは事後的に認知可能な事象である

ただこの、今組み替えられているという感覚はなんだろう。

構成されているブロックは同じであるが、配列が変わる。

配列が変わることで関係性が変わる。

2023年8月15日火曜日

とどめられないものをとどめる

 からだの真ん中から溢れ出るこの感情は何か。既存の概念や言葉では自分にとって納得できないから、そういうことはしたくない。


言語化することは、混沌とした世界のある側面を切り取り、概念を固定化してしまうことではあるが、言語化することにより、他者に伝達可能にし個別固有の状況を「ひらく」ことができる。固有の状況をひらいていくことは、「個人的」とも捉えられれがちな葛藤や憤りを共有可能にし、発信者や同じ思いを持つ他者が世界を肯定することに役立つ。


握手をした時に感じる信頼、抱擁の時に感じる安心感、接吻の時に感じる幸福。これらはどれも皮膚に直接触れ合うことによって何かを伝え合っているともとらえることができる。しかし、最近私が感じているのは「アンロック」されるという感覚である。


皮膚に触れ合うことによって、環境や状況に埋め込まれた感情を感じることが可能になる。それらの感情はすでに存在しているのかもしれないが、鍵がなければその感情を知覚することができない。人は環境や社会的文脈、その人が持つ独自の文脈によって固有の鍵を持っている。その鍵が受け手である自分の鍵穴に適合した時、からだの中に入っていた感情が溢れ出てくる。


他者に触発され生じる感情は、言語にとどめておかなければ、その一瞬の出来事として忘れ去れてしまう。同じ感情になることは二度とないはずなのに。


漫然と過ごしているとこぼれ落ち、ないことになってしまう、そのようなとても個人的な経験や感情をひらくために、小説家や人類学者、アーティストは存在しているのだと思う。