2016年11月24日木曜日

上橋菜穂子「精霊の木」を読んで

上橋菜穂子のファンタジー処女作、精霊の木を読んだ。

1989年にこれだけ、政治的にバランスをとった植民地主義批判的な物語を、しかも物語として完成された形で書けるのはすごい!とまず思った。

読みながらずっと考えていたのはやはりアボリジニの同化政策だし、実際にオーストリアで行われた事実をもとに物語が構築されているのがとてもよくわかる。

あとがきで筆者が指摘しているように、この物語は植民地支配の結果滅ぼされた人々をヒーローとして、主人公として描いた作品である。

ただ、この物語はそんな政治性をごり押ししてくるのではなく、家族愛や思春期の青年の心の葛藤も同時に描き、エンターテイメントや文学として成立しているのである。すごい。

物語の締めくくりも妙にリアリスティック、つまり、裁判沙汰になっていき、社会がどのようにこの問題をとらえるのかを問う形で幕が降りる。

児童書に綿菓子のような甘い終わりかたを望む人にとっては、気に入らない終わりかたかも知れないけど、私にとってはすごくしっくり来る終わり方だった。

ただ一日たって考えると、

2016年11月17日木曜日

ユリシーズの瞳

どうにもやりきれなくて、映画を観た後、サルミアッキ入りのウォッカを一気に飲み干した。買ってから、もう何年も経っているせいか味が変わってる気がする。
口の中はサルミアッキ独特の刺激臭と少しのあまさで充満する。胃の奥底から食道にかけてまるで炎に焼かれているように熱い。

ウォッカが合う映画だ。




旅なんて何も得られない


でも人間は旅を続ける。


それは愛する人に、旅の話を聞かせるため



生き残ったものだけが語ることを許される。生き残ったものは常に多くの別れと共にある。人一倍数多くの。





今日はすごく文学的インプットが多い日だ。午後に三島由紀夫の「愛の処刑」を読み、あまりの生々しさに吐きそうになり、そのまま、ユリシーズの瞳を観てしまった。観てしまったというべきだと思う。3時間もあるのに。そしてこれから邦画を観に行こうとしている。本当は観に行きたくない。ユリシーズの瞳(私は「オデュッセウスのまなざし」と訳したい)の余韻や考えなければいけないことを忘れてしまいそうだから。でもなぜか、私は映画館に行ってしまう気がする。今日はそんな日だ。

2016年11月11日金曜日

人間ってうまくできてんな

宇多田ヒカルが、亡くなった母のことを歌った、「花束を君に」をやらなきゃいけないレポートを前に聞いていたら、ブログのこの記事をつい読み返した。

筆不精
https://ukihoku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

これは僕の父が亡くなった時に書いた文章である。
この記事を読むと、2012年の11月に亡くなったのだなということがわかる。

不幸は蜜の味、幸せは努力 
https://ukihoku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

そしてこちらは、闘病中の父に説教するつもりで書いた記事である。全く偉そうだ。いまだったらこんなこと書けない。自分も弱いことをほとほと理解したから。

はっきり言って、宇多田ヒカルのように父のことを美化して回想することは全くできないけれども、4年経って、このころの自分をようやく客観視できるようになった気がする。上の文章を見てもわかるように当時の自分は本当に荒々しく、現実を正視した気になって全く何も見えていない。

ある映画をみて、死にゆく人はどれだけ強い人でも、生きたいと願うのかもしれない。それこそが人間らしさなのかも、そして現世への愛なのかもしれないと感じた。そんな風に感じるのは僕にとってとても特殊なことだ。

今までの僕は死ぬことなんて当たり前で、特に悲しくもなければ、名残惜しくなる必要なんてないものだと、妙に達観していた。いまでも、別にいつ死んでも変わらないし、「明日君は死ぬ」と言われても粛々と受け入れられるような気がする。しかし、「愛」というものがもしあるとしたら、現実世界においてそれを感じることがあるとすれば、死んでしまうことを悲しく感じられるのかもしれないとも思う。死とはすなわち、愛せなくなることだから。


その点、上記の映画はラストシーンにおいて、死んでも人を愛し続けることが可能だということを示してくれたように思う。救いを与えたのだ。


でも、それってどうなんだろう?


さあ、あしたの発表レジュメを書かなくては。現在0ワード。





2016年11月7日月曜日

博士課程には進まないほうがいいと思う理由

最近まったく研究活動をしていない。こんな状況で修士を修了できるかさえ怪しい。
というか今のままだとできないだろう。はあ。


今一番博士課程に行ってはいけないなと思う理由の一つは、研究したいこれといったことがないからだ。

ただでさえいばらの道である研究者になろうとするなら、なにかしら譲れないもの、どうしても研究したいことがあるべきだと思うし、そういったことがなければ、続いていかないだろう。


そうだからといって、就職するのだろうか?消去法的に?それもまた違うだろう。ただ、私のしたいことというか、得意なことってなんだろう。まあ即答できるのは寝ることである。




2016年10月27日木曜日

lonely but not alone

なんのためにここにいるのか、どこに行こうとしているのか、わからない。


そんなの多分わからないんだと思う。


生きていくのって本当に孤独で、どうしようもなく悲しくて、そんなもんだね。



ゴッホは自殺して、ゴーギャンは南の果ての島で死んでしまう。



たぶん、自分の心情のせいなんだけど、ゴッホの書くゴーギャンの椅子に心をつかまれてしまった。そこに座っている人をその人を介さずに椅子だけを描く。

椅子についてはこちらを
https://g.co/kgs/iUlsqC


どう考えてもゴッホって精神というか、感覚?が、普通ではないと思う。私はとても好きなんだけど。
そんなゴッホがアルルに芸術家の桃源郷を作ろうとして、パリの友人に手紙を送るけど、反応してくれたのはゴーギャンだけだった。実際来たのもゴーギャンだけ。


私が手紙を送ったら(そんなことたぶんないけど)来てくれる人がいるのだろうか。少なくとも、手紙が送られてきたら、行く人にはなりたい。


僕は最近とても反省している。僕の方を向いて欲しいから人に対して優しくしてるんじゃなかろうか。べつにそれを反省する必要はないと思う。人間って多かれ少なかれそういうものだから。でもなぜか、罪悪感を覚えてしまうのはきっと、人に対して後ろめたいことをしているような気が常にあるから。

「友達」が多い人はすごいなと思ってしまう。私にはそんな多くの人間関係のメンテナンスはできないから。かといって少なくてもできないんだけど。


でもきっと、なんだかわからないけど、いざという時頼れるかな?と思える他人が私と繋がってくれているのは、自分勝手で自立してない私には暖かい幻想だ。


Amici in rebus adversis cognoscuntur.







最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。
みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。

あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。
行く前はすごく気が重かった。
嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。
自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。


完全に執着していないか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。


それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?
だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。
しかしながら、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。

2016年10月23日日曜日

2016年10月19日水曜日

初心とは

初心忘るるべからずとはよく言ったものだ。
今、自分はなにがしたいのだろう
ということで恒例、自分の昔のblogを読んでみよう!恥ずかしいを通りすぎて面白い投稿だったのでシェアするね。
以下自分のblogから引用

2016年10月13日木曜日

東京旅行で感じたこと

最近東京に旅行するたびに、学ぶことが多い。
今回の旅行では、さまざまな友人(特にここ半年会ってなかった人)に再会したのだが、自分の傍若無人さというか、はばかりのなさというか、無遠慮さというかを実感するに至った。

みんな私と付き合ってくれてありがとうと思う。本当に泣きそうになる。arigatou
ありがとうって伝えるのが下手だ。



あと、距離をとって、時間をかけることによって熟成させることができる感情もあるのかな?と希望を得た。

会いに行く前はすごく気が重かった。

嫌われると嫌だから?前会った時と変わっていたら嫌だから?いや違う。

自分がまた執着していることを再確認したくなかったから。

完全にそうではなかったか、と言われると違うんだけど、執着は薄まっていくのかもしれないと感じることができた。そして、前回の斜陽を読んでも思ったことだけど、私が愛と勘違いしていたものは愛ではないのかもしれない。というか多分違う。

それはただの執着。


母の子への愛のようなものも実は執着とないまぜになってしまっていることがあるのではないだろうか?

だから苦しむ親子もいるような気がする。本題とはそれるが。


しかし、執着とは良い風に解釈すれば、「情熱」なのかもしれない。





2016年10月11日火曜日

斜陽を読んで

太宰治の斜陽をよんで、こんなに激しい母への思いを女性は抱くのだろうか?とふと不思議に思った。斜陽の主人公はこんな風に思っている。弟が私よりも愛されて苦しい、母親が死んでしまうのが嫌だ、と同時に私の存在自体が母親を死に至らしめているのではないか。

一時期はこれって単なる太宰さんの母親を愛する気持ちを主人公に投影しただけではなかろうかと単純化しすぎて考えていた。

しかも私の周りは、母親に対抗意識を持ったり、憎んだり、特に感情がなかったりする、強い?自立した?女性ばかりなので、そんな風に思ったのかもしれない。

でも、「花束を君に」の歌詞を見て、あ、女性とか男性とか関係ないかもと思った。
この歌詞でも、言葉が足りないほど愛しく、最後に抱きしめてほしかった母への思いが綴られている。

まあ、私自身も母親へそこまでの愛はない(と思ってる)のでわからなかったのかもしれない。

そして、斜陽は怒涛の結末を迎える。女性にしかできない方法で終結するのである。
あれってそうするしかなかったのだろうか。それは時代的に?それとも現代でも?

いや、そうするしかなかったのだと思う。

本当に男という生き物は儚く無意味で自分勝手だなと思わされる

2016年10月7日金曜日

どうすればいいかわからない

まず、久しぶりの生ビールが美味しすぎていろいろと無作法な振る舞い、生意気な口を叩いてしまってすみません…絶対このblogにかいても通じないんだけど、ま、いいです。

本当にいろんなことへのリスペクトが足りない。人類学を少しでも学んだものとしてどうかと思う。ほんとやだ。

この失礼な態度、世の中なめてる態度をどうにかしていきたい。

やりたいことなんかない空洞人間なんですが、そういう人が絶対に入ってはならない迷宮に入り込んでしまった…気がする。

とりあえず、目の前にあるフィールドノートとやらを開かなくてはならない。そこから始まるのか。

どうなんだ。

そんなことはどうでもいいが、とにかくなめ腐った自らの態度を改めなければならない。こんなところに駄文を書き連ねてる暇があったら心の底から反省しろよよ自分に言いたい。


勉強するしかないのかな。勉強原理主義のような気がするが。

良心はどこにあるのか。

京都に戻りました

京都はまだ暑いです。
いろんな人に気安く話しかけてしまう、帰国者あるある現象がおきております。

2016年7月9日土曜日

ありがとうございます

BGMはこれで



さいきんの横暴な自分の行動を振り返ってみると、ただただ感謝しかできない。
本当に私の周りにいてくれる方々、居ざるをえない方々、にただただ感謝である。

本当に。

2016年6月29日水曜日

Please don't flirt with him or her

なんでなんだろう

こうやって邪なものに引きずられるのは。

どうしようもないのかな


2016年6月25日土曜日

2016年6月21日火曜日

共同体の中で生きていくの辛すぎる

またしてもこの謎の感情が生まれてる。
謎の感情とオブラートに包んだ、もしくは本心を無視した言葉で表現してみる。
本当に意味のないところに執着を示す自分の心。意味のないことを機敏に感じ取ってしまう、いらない繊細さ。やめてほしい
そんなことどうでもいいじゃん
強がってんな~
どうせ共同体なんて想像なんだよ!

2016年6月16日木曜日

定期ポスト、水になる

常、僕は水になりたいと思っているわけだが。それはなぜだろう。というかそれはどんな状態のことを呼ぶのか。

その時に考えるのは

タオイズム?

合気道?

そういうものなんだろうか?そういうものでもあると思う。 でもそれって、自分の足で立ってから言うべきことなのかもしれない。ずっとそんなことばかり考えている。

とにかく、ここ2年くらいではこのスピーチを繰り返し読んでいる。
David Foster Wallace’s 2005 commencement address at Kenyon College
原文
https://www.1843magazine.com/story/david-foster-wallace-in-his-own-words
和訳
http://j.ktamura.com/this-is-water#sub--1

 リベラルアーツ、自由人になさしむ知恵

ここでは、知の探求者としての自由が現れているように思う。
知は人間を不自由にもするが、大きな枠で見れば、自由にすると思う。月並みだけど、不自由さを知っていることこそが自由になることそのものだ。

blind certainty, a close-mindedness that amounts to an imprisonment so total that the prisoner doesn't even know he's locked up.
「盲目的な確信と狭い了見に起因する、獄中にいることすら気がつかない囚人」
learning how to think really means learning how to exercise some control over how and what you think.
「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」

 how to keep from going through your comfortable, prosperous, respectable adult life dead, unconscious, a slave to your head and to your natural default setting of being uniquely, completely, imperially alone day in and day out.
「いかにして心地よい、豊かで、凛とした社会人生活を送り、ゾンビのように、無意識で、自我および唯一の完全な凄まじい来る日も来る日も訪れる孤独のドレイとなるのを回避するか」

The only thing that's capital-T True is that you get to decide how you're gonna try to see it. This, I submit, is the freedom of a real education, of learning how to be well-adjusted. You get to consciously decide what has meaning and what doesn't. You get to decide what to worship.
「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。 

  The really important kind of freedom involves attention and awareness and discipline, and being able truly to care about other people and to sacrifice for them over and over in myriad petty, unsexy ways every day.
毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。

The capital-T Truth is about life BEFORE death.
シンジツとは、死の前にある生のためのものです。


真理のために生きたい。そのためには今のままではいけないのだろう、そう。そうだとおもう。私は「まよっている」らしい。


それはきっと怖いのだとおもう。自分のことを自分で背負うのが。自分を背負った時に重みに耐えられないことが。

そんなこと言ってられない状況になったにもかかわらず。

自分で背負うくらいなら、その辺に置いておきたい。

甘ったれてんじゃねえよ自分。

水に戻ろう。

水、それは形のないもの、そしてその場で形になるものだ。
なにかとなにかをつなげ、どんなものの隙間にも入り込む。

流れる水は全てを流していく。どんな色にもなるし、どんな色にもならない。

そして人間に必ず必要なもの


2016年5月24日火曜日

人類学の意義

きっと、緻密な文章、精緻な描写、筆者がフィールドで行った体験を読者に疑似体験させる風景の再現性があるからだと思う。目の前に広がるサモアの海、むわっとしたヤシの木の間を通り抜ける風 、潮と油の匂い。

エスノグラファーになりたい人はこういった表現を世界に対して行いたい人だと思う。でもそこがいつも人類学者が問われる、「ルポルタージュと何が違うの?」問題である。

先日もちょうど、名古屋の地下道で、工学部で勉強する友人に「人類学の人はどんな社会的な意義から研究しているの?社会的な要請は研究テーマにつながるの?」と聞かれて必死に答えになってない答えをしたばかりだ。

人類学は、字が表すとおり、「人類」の「学」だ。

つまり人類とは、人間とは、人間がなぜ生きるのかということを問題にしている学問だと思う。

それ以外に「意義」は必要なのだろうか。

2016年5月17日火曜日

マリリンストラザーンを読んで

授業で英国の人類学者、マリリンストラザーンの論文を読んだ。

ああいう論理展開をつなげてある論文を読むと、読解にすごく手間がかかって、同じ次元で話を展開できなくて、大学院にいていいのかなと思ってしまう。

ゼミの後院生室で先輩が「西欧人とは」ってひとくくりにしちゃったりするところがすごいよね。と言っていて、確かにと思った。

ほとんど意味のない文章書いてるな。
その先輩も言っていたが、ストラザーンのそういう英国人的な偉そうな態度には少し疑問を感じるが、彼女の理論は地に足が付いているし、おそらく民族誌的経験から導き出された、もしくは頑張ってひねり出したであろう議論のため面白いんだと思う。

あのくらいの議論をするためにはやっぱり、いろんな本を読まなくてはいけないんだなと、修論計画が全くの白紙の私は思う。

圧倒的に読んでいる量が少ないと日々感じる。学部の時も思っていたけど、やはり賢い人々に囲まれていると触発されますね。環境とはとても大切である。

「君はなにしたいんや?」と聞かれるんだけど、そこに答えが出せない…
だってそれって俺の20数年の人生そのものの質問だし…

いま心の片隅で、フィールドに出れば何か運命的な出会いがあるんじゃないか、運命的に興味をもてる対象を見つけられるのではないかと思っている自分を叱りたい。


2016年5月14日土曜日

気がつけばもう

気がつけばもう五月ですね。

あっと言うまに、修論計画の発表が近づいているやばい。

頑張ろう。

2016年3月17日木曜日

でも

今日の冒頭一言(本文とはなんの関わりもありまへん。な、なぜ関西弁っぽくなるのか…汗。本文だけだと高校生のポエムみたいで嫌なので!)
大学院の選択間違えたかも
ま、入学してみるしかないよね☆
冒頭一言おわり!


2016年3月3日木曜日

室生犀星

室生犀星とは金沢出身の作家である。確か犀川のほとりで育ったのでそういうペンネームにしたはず。本人は何度か食うに困って金沢に帰ってるはず。この詩は結構有名だと思ってたけどそうでもないのかな?でも、読むたびにふるさとは戻る場所ではないな、頑張らねばと繰り返し思うのです。

2016年1月23日土曜日

くう

各方面すみません…私は先程から虚しさに人生の意味を問うフェーズに入ってしまいました…(意味不明…)
もう布団から出られません。一生出られないかも。もう嫌です。外の世界は冷たくて寒い。でも、内側だって生ぬるいだけ。

2016年1月7日木曜日

寝れない夜


寝れない夜 

君も同じく窓辺にいるだろうか 

それともぐっすり寝ているだろうか

静かにおもうにとどめておこう

きっとそれが一番よいのだ

2016年1月3日日曜日

アゴタ・クリストフとトーベ・ヤンソン


アゴタ・クリストフの代表作『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』を読んだ。どの本も友人から借りて読んだ。そして思い出したのが、トーベヤンソンの『誠実な詐欺師』だ。なぜなのか考えながら読書感想文を書こうと思う。










まず、『悪童日記』では少年達の感情を排した文章から、痛み、欲、愛、感情といったものが、静かに淡々と描かれていた。文体は静かで平坦なのに、読み手は感情や欲などを強烈に感じるという、面白い読書体験だった。

あらすじをちょろっと書くと(あんまり役には立たないと思うが)、首都の街である程度豊かに育った双子は戦争の激化にともない、母の実家のある田舎へ疎開する。おばあちゃんの家に疎開した双子の「ぼくら」が事実だけを大きなノートに書きつづけることを自分たちで決め、日々の出来事を書き綴っていく…

って感じ。読むのが苦手な人は映画もあるんだけど、映画はこの物語にとってとても重要な、性的なシーンとか残虐な行為とかが大幅にカットしている(勘のいい人ならわかると思うけど)ので、ぜひ映画をみた後に小説を読んでほしいと思う。



そんなことはともかく、感想文を書いてるんだったね。


悪童日記にでてくる、双子は頭が良くて、正論で、まっすぐすぎて、おばあちゃんが「悪魔の子!」と叫びたくなる気持ちも良く分かる。彼らは強くなるために様々な訓練を行う。彼らは痛みに慣れれるために、双方の体を疲れ果てるまでベルトで鞭打ち、泣かないようにする。精神的に強くなるために、汚い言葉で罵り合う(それは彼らが普段、街の人から投げかけられる言葉だ)。優しい言葉でいっぱいの母の手紙を燃やす。空腹に耐えるため三日間断食する。彼らは痛み、つらさ、弱さ、飢えに対処するために、自らを訓練し乗り越えようとしていく…僕には、その行為がとてもまっすぐで真摯、美しいとさえ思えた。そうやって様々なことに慣れ、強くなっていく双子はしたたかに戦時下を生き抜いていく。


こういった、自分で自分を痛めつけることで慣れて強くなることは、一見不健全なやり方だろう。でも「慣れる」ことでしか乗り切れないのが、戦時下であり、そこは極限状態だったんだなと理解できる。そして僕には、現代のぬるま湯の中で生きている僕には、真面目に生きぬこうとなんでもする双子をかっこいい、美しいと思ってしまう。「しまう」と書いたのは、この文章を書いている僕は、戦時下にも極限状態にもいない無責任な存在だからだ。そんな無責任な奴が「美しい」とか言っていいのだろうか。まあそんなことは置いておくにしても、現代は普通、極限状態ではないから、いくらでも痛みや誹謗中傷から物理的に逃げることができるし、そうすべきでもあると思う。ただ、いろんな事情で逃げることができない場合、最悪の手段かもしれないけど「慣れる」ということは現代でも必要なのかもしれない…


こんな風に書くと、慣れるということは、自分の感情を完全に消し去ってしまい、精神的に死んでしまうことだと思うかもしれない。しかし、僕がこの物語からはそういった印象を受けなかった。なぜだろう。双子が「とても」素直に、受け取った親切に対して感謝したり、恩返ししたり、報いたり、していたからだろうか。その行為に僕は感情を感じたのだろうか。双子の言葉を使えば、彼らは「しなければならないことをやった」に過ぎないのだろうが…


この物語で特に感銘を受けたのが、双子の描写する人々の描かれ方だ。双子が観察する、彼ら以外の外の人々、彼らから観察される戦時中の極限状態の人々は醜く、そして懸命でとてもリアルだった。そのあられもない姿に心を揺さぶられた。二作目『ふたりの証拠』の訳者解説にこんな一文がある。


アゴタ・クリストフ自身、あるヨーロッパの雑誌の取材に答えて、『悪童日記』では、戦火のなかで過ごした自分の少女時代の思い出をもとに子供について書いたのであって、戦争はどちらかというと、極限状態をリアルに設定するための口実だったと述べている (p298-299アゴタ・クリストフ、堀茂樹訳『ふたりの証拠』ハヤカワepi文庫、早川書房2001年)


とあり、作者は子供と、極限状態を書きたかったのだとわかる。極限状態(物資が少なく、選択肢が少なく、移動が困難な状態)に舞台を設定すると、人間の欲や、不条理、浅ましさ、弱さがとても描きやすいのだな、と思う。そして作者は本当に良く人を観察している。

人を観察するというと普通、「自分にとって外の人を見る」ということを連想すると思う。「人間ウォッチングが趣味」というとカフェなどで自分の外に展開されている人間たちのなり振る舞いを見るのが好きなのかなと思うと思う。しかし、作者のの優れている点は、外の人間だけでなく、自分の内側の人間、つまり自分の内面や感情を良く観察しているところだと思う。


なぜ人は人を殺すのか、なにに快感を覚えるのか、亡命していること、難民であること、故郷に帰っても居場所がないことに、どんな感情を持っているのか。自らの感情、情動、苛立ち、幻想をしっかりと、静かに、落ち着いて観察しているからこそ文章化できるのだと思った。そういったことは、他人がやることをじっと観察し、そして自分をじっと観察することで初めて書くことができる。混乱した人間の心を書くということは、そういった卓越した観察眼を持っていなければ、できないことなのである。 


おそらく、上記で取り上げた二つのこと、感情を排し静かな目線で人間の欲を描写していることと、人間心理への洞察の鋭さを感じることから、トーベ・ヤンソンの『誠実な詐欺師』を思い出したのだと思う。そして、訳してもなお(訳者の腕がいいのかもしれないが)感じられるその文体の簡潔さ、シンプルで削ぎ落とされた表現にも共通するところがあると思う。


どちらも雪が降り積もり、足音さえも雪に取り込まれてしまうような、静かな冬に読みたい物語だった。今年は暖冬だけど。