2015年12月14日月曜日

悪童日記

友達に借りた、アゴタクリストフの「悪童日記」を読んでいる。
子供の視点を通して、人間(大人)の矛盾や汚いところ、戦争のおかしいところ、様々な暴力を目の当たりにできる作品だった。真の自立とは?ということも考えさせられた。

いろいろ印象的なシーンはたくさんあるんだけど、本筋とあまり関係ない急に差し込まれたエピソードの中に出てくる酒場の女の発言が戦争について的を得ているなと思う。人間がなぜ戦争を求めてしまい、突き進み、誰が迷惑するのかという問題について。


「あたしたち女が戦争をまるっきり知らないだって?冗談もたいがいにしてよ!こっちは山ほどの仕事、山ほどの気苦労を引き受けてんだよ。子供は食べさせなきゃならないし、けが人の手当てもしなきゃならない……。それにひきかえ、あんたたちは得だよ。いったん戦争が終わりゃ、みんな英雄なんだからね。戦死して英雄、生き残って英雄、負傷して英雄。それだから戦争を発明したんでしょうが、あんたたち男は。今度の戦争もあんたたちの戦争なんだ。あんたたちか望んだんだから、泣き言を言わずに勝手におやんなさいよ、糞喰らえの英雄め!」(p.149、アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀茂樹訳、早川書房2001)


山極壽一×関野吉晴のスイッチインタビューhttp://www4.nhk.or.jp/switch-int/x/2015-11-21/31/8084/2037084/を見たときから考えている、男の見栄と戦争の問題についてキッパリ言ってもらえた気がしてとてもスッキリした。そして、訳がとても面白いなと感じている。ああ、原典を読んでみたい。

ジェンダー的にくくるのを許してもらえば、男とは見栄と意地と変なプライドで行動する不思議な生き物だ。最近は逆説的に「だから女性は素晴らしい」と思ってたけど、そうやって盲目的に女性を神格化するのもおかしいのかもしれない。


悪童日記の主人公である少年たちを見ていると、男女の関係なく、いかに個人として冷静に分析、判断することが大事なのか再確認させられた。そう、僕はそうやって、ある程度冷めた目で世の中を見ていたいのだと思う。


悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

2015年12月6日日曜日

サティだけが

最近ピアノ曲ばかり聞いている

もっぱらリストとサティ…

なぜだろう。

この二人ってピアノを弾くとき同じような難しさがあるんじゃないかな…おれ、ピアノ弾けないから知らんけど

リストは超絶技巧が、注目されがちだけど、感情をのせるのが難しい、でも感傷的な曲を結構書いてると思う…そんな偉そうなこと言えんけど…サティ的なというか…やり過ぎても薄っぺらくなるけど、ただ譜面通り引いても面白味がないというか…それはどんな曲でもそうか…

ジムノペディとか郷愁とか…有名どころしか知らんけど。、そのあたり?

それはさておき

サティだけが今の僕に寄り添ってくれる気がしてます…

だからなんやねーん!

2015年11月23日月曜日

同じ方向を向く?

愛とは同じ方向を向くものだと誰かが言っていた気がする。

そうなのかな

時々目配せしてほしい

目配せを待ったり、こっちを見てくれるのを待つことは愛ではないの?

あまりに長いと辛くなるけど

愛であってほしい

愛であるうちにどうにかしてほしい(笑)

2015年11月4日水曜日

意味のある地名

路線図を広げてみると、たくさんの地名が並んでいる。その多くは自分にとってなんの意味も無い、ニュートラルな地名である。

地名はただそこに印刷されているだけであって、感情は伴わない。「情報」として流れていくだけである。

しかし、目に飛び込んでくる地名もある。一度訪れた場所や思い出がある場所の地名。そこには感情や記憶が想起される。

そうやって、だんだんと意味のある地名が増えていくことが、とてもうれしい。



しかし、年を取ることや記憶が増えることは、必ずしも良いことばかりだとも
言えないかもしれない…

2015年10月28日水曜日

感情的なもの(情動)との付き合い方【未完全版】

最近、理性的ではないどうしようもない気持ち(感情ともいう)に悩まされる日が多い。

わかりやすくいえば、好き嫌い、嫉妬心、焦燥感などだろうか。

私はこれまで、こういった感情を滅することで比較的、心が平安な状態で生きて来たと思っている。
感情をいだきそうになったら、心をないものとして、理性的な価値判断だけで行動しようと努めてきた。

2015年10月23日金曜日

人類学の意義

今日久しぶりに学部の基礎的な授業に参加した。

そこでは人類学の教授がふと、人類学と地域研究の違いについて話していて、忘れてはいけないことだと思ったので、ここに記しておきたい。



人類学とはミクロな事象、固有の現象、「彼ら」のやっていることを通して人間の本質に迫ることである。


また、他の社会科学と大きく異なる点は、被調査者である「彼ら」の目線から世界を見たら何がみえるのかという点に重きをおいているということである。


この二つのことは本当に基本的で、何度も言われることだけど、大事なことなので、心に刻んでおきたいと思った。

2015年10月22日木曜日

ウラとオモテ

<この記事は2015年6月に書いたものです>

当然と言ってしまえば当然なのだが、人が自分に見せる姿と違う姿を目にすることは、色んな意味でショッキングである。

それはいい意味でショッキングであることもあるし、悪い意味のときもある。

まあ、いい、わるいっていうのも個人的な問題であって、社会的にどうこうってことではないんだがね。



しかし、なぜ私達は一貫性を求めるのか?


裏表がない人とは「いい」人なのであろうか?ちょっとそこは分からない。




もし、明らかに自分に接する時よりも、幾分かリラックスした表情をしていたり、話すトーンが違ったりすると、なんだか自分が軽視されたような、結局蚊帳の外だったのかよ的なつまらない感情がわいてしまう。

多分、正解は、「あ、使い分けていらっしゃるんだな」と、思えばいいんだと思う。


他の人に向ける態度を自分にも向けてほしいと思うことは甚だ自分勝手なものである。




ここまで言って、でも、裏表がない、誰に対しても平温に見える人に対して安心してしまう。


それは私が損をしていないことに対する証明を得るだけの事なのかもしれない。


だって、誰に対しても平温なんて人間としてちょっとありえないし、ともすれば感情のない人ということになってしまう。ただそれが、どの程度の差なのか、それが表面化しやすいのか、その差なのである。





自分はとことん嫉妬深いなと笑ってしまう。

2015年10月21日水曜日

手紙というもの

文章を書くということ、とても責任の重いことである。しかし、人間の歴史においては大変特殊な行為ではないだろうか。人間はかつて無文字社会に生きていたとすれば、口から発せられる音によるコミュニケーション、つまりその場ですぐに消えてしまうやり方を基本に人間は生きてきたといえるのではないか。要するに、書き言葉ではなく話し言葉が人類の基本なのではないか。

それに対して、一定時間残り続けるものに文字を書き、人に伝えるということは比較的新しいやり方である。口からでる言葉ならば瞬間瞬間で消えてしまうが、文字は残り続ける。つまり発信者の身体から離れたところ、発信者の文脈から乖離した場所で意味を残し続けるものなのである。

手紙を書いている瞬間は、そのときの気持ちや感情を、そのとき思ったまま書き付ける。しかし、いったん書き終えてしまうと、そのとき思った気持ちではなくなっている自分に気がつくのである。そしてその手紙を読むという行為も、書き手の文脈からは離れた場所で行われるのである。よっぽど読み手に書き手への配慮がない限り、どのような背景で、どのような気持ちで文章を書いたのかな?などと読み手は想像しないし、読み手は書かれた文章しか見ることができないので、そのような書き手の背景はわかるわけがない。読み手は書かれたものから判断するしかないのだ。

そのため、手紙を書くこと、文章を書くことには相当の責任と気概が求められると思う。文字はとても強力なので、いとも簡単に相手のことを傷つけたり、文意を誤解されたりしてしまう。そして文章自体は書き手のイマ・ココの文脈から乖離しているのに関わらず、書き手は文章に対して責任を持たなければならない。


手紙に封をする行為はそのことを象徴しているかのようだ。


それまで書き手の手に密着していた便箋を、封筒に入れ、糊付けをすることで、書き手の文脈から完全に離れ、手紙というものが完成する。

書き手は封筒によって隔てられてしまう言葉に責任を持たなければならない…

僕は手紙を書くことは結構好きだが、封をする段階になって毎回躊躇する。それは手紙を書くときに下書きを書いたり、推敲しないことが問題なのかもしれない。いや、たぶんそれがかなりの問題であると思う。ああ、もっと推敲したほうがいいのだろうな。自分にとっても相手にとっても。

ああ、推敲…

2015年9月8日火曜日

Caro Emerald - Coming Back As a Man 和訳 日本語 歌詞



マツコとマツコといという番組に使われていて、かっこいいなと思った曲の和訳をしてみました。間違いがあったら教えて...というかぜんぜん訳しきれてない…

ああ、アメリカ研究の教授も言ってたけど、本当に詩を訳すなんて馬鹿げてる。もうしません。でも基礎的な英語の間違いは必ずあるので指摘してほしい。

でも、マツコの番組に、しかもアンドロイドと共演するという番組にこの曲を使うのはおしゃれである。

元の歌詞はここを参考にしました
http://www.azlyrics.com/lyrics/caroemerald/comingbackasaman.html



[Verse 1:]
ギリギリで生きている、
何かがわたしを怒らせた
ベットに飛び込み寝返りを打ったoh yeah
そう、言ってしまった

満足していない
すべてのロミオと彼ら(男たち)のサヨナラに
彼らの「またね」という不完全な嘘に
だからため息をつく


[Pre-Chorus:]
今のわたしのことだけを言ってるんじゃなくて
女たちの世界のすべての金を持ってしても、彼を変えることはできない


[Chorus]
電話帳をつかんで
「ダビンチ」をさがすの
ほかの誰かみたいに変身するために
さあ、究極の逆襲のため、リハーサルの時間よ
みてろよ、考えがある
男として戻って来るんだ



[Verse 2:]
青を着よう
平たい革靴を見繕って
それはダイアモンドよりも私を輝かす
そして何か新しいものを

コロンをまとうように
おまえを囲おう、と言う
そして囁く「お持ち帰りしてくれない?」と
アーン


[Pre-Chorus 2:]
ヒントと、それから私の鍵を落とした
そして網を打つ
忘れられない夜を経験しそうな誰かを捕まえるために


[Chorus]
電話帳をつかんで
「ダビンチ」をさがすの
ほかの誰かみたいに変身するために
さあ、究極の逆襲のため、リハーサルの時間よ
みてろよ、考えがある
男として戻って来るんだ


[Bridge:] 
エロール・フリンのヒゲの後ろに隠れよう
気持ちがここにあるのを確かめるために、間違った印象を取り去って
私を女の子のためのイコライザーと呼んで
教えて、教えて、どこが痛いのか
 

[Chorus]
電話帳をつかんで
「ダビンチ」をさがすの
ほかの誰かみたいに変身するために
さあ、究極の逆襲のため、リハーサルの時間よ
みてろよ、考えがある
男として戻って来るんだ

2015年8月26日水曜日

カミュツイートまとめ

これまでつぶやいた、カミュの引用ツイートをまとめました。
カフカとカミュを混同していた大学一年生の自分を叱ってやりたい。









・『最初の人間』アルベール・カミュ 大久保敏彦訳 新潮社1996

2015年8月1日土曜日

アルベール・カミュおもしろいー「貧者の記憶」についてー

自分の名前の姓と名を早口で読むと「カミュ」と聞こえることから、友人から「カミュ」と呼ばれることが時々ある。聞いたことある名前だったけど、全く読んだ事なかったので、近くの公立図書館で、『最初の人間』を借りて読んでみることにした。本当は一番有名な『異邦人』あたりを読んでみたかったのだけど、貸し出し中だったので仕方なく、『最初の人間』を借りたのである。



でも結果的に『最初の人間』を読んでよかった気がする。『最初の人間』はカミュが生前、構想を書き溜めていた手帖と書類を出来るだけそのままの形で刊行した、彼の自伝的小説らしい。完成前にカミュは交通事故でなくなってしまっているので、細かいところの描写が未定であったり、メモ書き・自分のための注釈がついていたりする。そのように、中途半端なものなのに、とても引き込まれる。ジャック(主人公)が生まれるシーンはとても描写が細かく、出産のシーンが鮮やかに浮かんできた。おもしろい小説なんだろうな~と思わせる始まりである。(えらそうだな自分w)



カミュが育った経済的に貧しい生活、それらを通した人間の姿の描き方は胸に迫るものがある。きっとそれは実際に体験したことから、書いているからだと思う。

特にこの箇所である。

貧者の記憶というものはもうそれだけで裕福な者の記憶ほど充実していない。なぜなら貧者は滅多に生活している場所を離れないので空間における指標が少ないからだし、また一様で、灰色の生活の時間の中にも指標が少ないからである。もちろんこの上なく確実だと言えるような心の琴線に触れる記憶もあるのだが、心が苦しみや労働ですり減ってしまうので、疲労の重みの下で、それもすぐに忘れられてしまうのだ。失われた時が蘇るのは裕福な者のうちでしかない。貧者にとっては、失われた時はただ死に向かう道の漠とした道標だけである。それに、首尾よく耐えていくためには、あまりたくさんの記憶は必要ない。彼の母親が恐らくやむを得ずそうしていたように、一時間一時間過ぎ去る日々にぴったり身を寄せている必要があった。
『最初の人間』アルベール・カミュ 大久保敏彦訳 新潮社1996 p.78




大学に入って、多くの裕福な者に出会い、言葉や記憶をしっかり持った人々とばかり生活していると、こういった正直で一生懸命な貧しきものの存在を忘れてしまいがちだ。というか忘れてもいいものなのだろうか。

最近の日本においてはここまでの貧しさは、なかなかないと思う。でも中学生のとき友達だった「彼ら」は大学で出会った人たちと同じように言葉を使っているとは思えない。

地方もしくは、貧しい家庭出身で都会の、中央の、urbanな、大学に行っている学生は少なからず考えることだと思うのだけど、裕福な東京の学生(※1)の前提、家庭環境およびそこから来る考え方と自分の考え方がフィットしないなと感じることがある。なにかはわからないのだが、価値観や考える上での土壌、スタート地点が違っていることに気がつくと言うべきだろうか。

別にそれが悪いとか、うらやましいとか、田舎の感覚をわからない都会っ子を馬鹿にしたいとかそういうことではない。「裕福な東京の学生」の中にもカミュの言うような貧しさを理解し、考えている人も多くいると思う。うん。何を言いたいんだ自分。

ただ、大学という場所、アカデミックな世界、中央のエリート達にはこの貧しさを知らない、考えたこともない人も多くいるのではないかなと、ひしひしと感じる。ま、考えているから偉いとか、そのほうがいいなんて全く思わんが。(だから何が言いたいのか自分 笑)

つまり、泥臭い思想や、地に這いつくばっている僕みたいな人が考えることを、エリート達に伝えることって難しいし、無理なことなのかもしれない。

僕が育った環境もすばらしく裕福であったわけではない。(しかし、カミュに比べれば格段に豊かな家庭だった)しかし、両親が教育を大切に考えていたから、大学に行く(大学院にまで行こうとしている)という選択肢を考えられたし、実際大学に入れたのだと思う。豊かさと教育の機会って本当に大切なことやな・・・

こんな感じでふんわりと終わっておこうと思います





この記事を書く前に読んで、影響された記事

・内田樹「突発性仏文学者症候群」
http://blog.tatsuru.com/2008/01/15_1150.php

身体的な哲学にはとても興味が持てる。記事中にある『哲学の歴史12』を読みたい

・萩原俊治「「最初の人間」」
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/touch/20130209/1360390179

貧しい人々の描写と、人を差別することについて述べられている。差別についても萩原さんと同じ意見だ。差別しない人間に育ててくれた両親と祖母に感謝したい。

・『最初の人間』アルベール・カミュ 大久保敏彦訳 新潮社1996


※1 無理やりステレオタイプにすると私立高校から東京の大学に行って東京から出ていないような方たち


2015年7月22日水曜日

人を大切にするということ

人を大切にするということはなんだろうと最近考えている。私のなかから湧き上がってくる結論的なことは「献身」的な行為なのではないかということだ。しかし、この行為は自分本位で、時に相手の迷惑になる時もある。「おせっかい」などということが良い例かもしれない。しかも、その「おせっかい」は見せかけの善意によって差し出されるので余計たちが 悪い。善意を伴って差し出された「おせっかい」を、相手は断らなければならないからである。(最初からそんなものはいらないのに)


僕はそんなことばかりやっている気がする。本当に人を大切にするということを理解していないのかもしれない。もしくは、自分が傷つくことを過度に避けているためかもしれない。


自分でどうして、ここまで、責任逃れをするための予防線を張るのがうまいのかと思ってしまうことが良くある。簡単に言えば、言い訳と嘘を常に用意しているのだ。


人はそんな人を「卑怯者」と呼ぶ。辞書的に言えば、勇気がなくずるがしこい者であるということだ。


最近ようやく、自分の根本的な問題が自分の卑怯性にあることを正視できるようになった、気がする。というか現在進行形でそれを行っていると思う。


自分が正面から戦わなくて済むように、相手を貶めるし、相手が自分より下手に出たと分かり次第、自らを優位に保てるように細工するのである。


どうやったら、正面から人と対話できるのだろうか。そういうことは必要なのであろうか。なにか大事なことを忘れてしまったように思えてならない。


2015年7月21日火曜日

その手を離さないで

その手を離さないで

夜空に掲げた あなたのその手を

その手を離さないで

たとえ私が 偽りだとしても

その手を離さないで

あなたの大きな 暖かな手を

その手を離した時

命は途絶える

2015年5月19日火曜日

正直でいること、弱みをみせないこと

常に弱みを見せることが、美しくないのは当然であるが、弱みを見せないことが不誠実というわけではない。


とにかく、面倒なことは早く終わらせておくことに限る。

2015年5月17日日曜日

SOTSURON

卒論が終わらない。やばい。こんなところに文章を書いている場合ではないのは知っている。ああ。



どうしよ。こんなときは過去の記事を漁ってしまう・・・基本てきに恥ずかしくないものを、このブログには残してあるのだが、選び抜かれたものだからか、自分の文章でも結構おもしろい。たとえばこれ。18歳の時の小説?を転載したもの。
 http://ukihoku.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html

何がしたいのかわからないけど、若いときってこういうショートショートてきなものにあこがれるよね。でも、内容がおばさん趣味なのが謎。

フィンランドの暗い冬を抜けたあたりの一連の投稿はちょっとセンシティブで我ながら、考えてるな少しは。とおもう。今は東京という熱帯に来てしまったせいか、あんまり物を考えていない。あと、目の前にあることが多すぎる。私にとって。
http://ukihoku.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
http://ukihoku.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html
http://ukihoku.blogspot.jp/2014/01/blog-post_26.html
http://ukihoku.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1392.html

さてと、卒論。どうしよう。あと12時間後に先生に会わなきゃいけない。でもほとんどできてない。まあ大変。やるしかねえ。

2015年2月9日月曜日

パーマかけてみた

人生初パーマ。髪がくるくるしてるだけでちょっと楽しい。パーマっていいね。


パーマ液の香りはなんだか好きだ。


なぜだろう。

昔から知っている気がする