2019年8月19日月曜日

中途半端な友人に嫌われたくない

「君は中途半端な友人がたくさんいるよね」

と言われた。言い得て妙だなと感じる。私は知り合いや友人は他の人々よりもどうやら多いようだ。

そして、嫌われたくないという欲望が人一倍強い。中途半端に友人関係を維持したいわけではなく、みんなのことが好きで、好きな人には嫌われたくなく、嫌われないよう嫌われないように行動しているうちに増えてしまっただけなのである。


2019年1月21日月曜日

基準点

命の恩人であり、基準点のような友人と定期的に会う




その人と会うと、なぜだかモヤモヤしたり、生き方を再考したくなる。それがなぜなのか、ちょっと考えてみたい。





基準点とは「地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成され、地図作成や各種測量の基準となるものです。」(国土地理院Webサイトより)


地図を作ったり、測量を行うには今いる場所を知る必要があるのだが、それを行うために「複数の」基準点からの相対的な位置を計測し、自分の場所を特定する。ざっくり行ってしまえば、なんの目印もない場所をA基準点から何メートル、B基準点から何メートルと示すことで自分の場所を知ることができる。


人間に関してもそのような観測は可能ではなかろうか。私は人間とは他の人間とのリレーション(関係)の中で生きていると捉えている。そのように考えた時、ある人間(人間集団)を表現するためにはその人間の周りの関係性を描くことが重要でかつ誠実な方法だと信じている。


自分がどこにいるのか知るためにも「基準点的な他者」との違いを探ることで明らかになることは多いのではないだろうか。(そればっかりしていると疲れるから毎日はしないほうがいいと思うけど)



友人とどんな時に喜びを感じるのか話し合った際、友人は作成した成果物が多くの人に閲覧され、より良い評価がなされた時に嬉しい。と語っていた。


それを聞いて、私の場合「多くの人」

には興味があんまりなく、特定の個人に必要とされる方が嬉しいのだなと思った。


私はいつもの悪い癖で、主題を曖昧にする別の話をたくさんしてしまい、友人とはあまり深くこのことについて議論できなかったが、もう少し深掘りしたかったな…



このように、友人はなんらかの基準点を与えてくれるので、そこを比較することで自分が見えてきたりもする。



モヤモヤについても考えてみよう



モヤモヤする理由はなんとなくわかった。気を許しすぎて自分の論理を相手に要求する、自分の中の論理を説明せずに相手に展開してしまう為である。



簡潔に言えば親しき仲にも礼儀あり、を忘れずにいれば、モヤモヤすることはないだろう。




例えば、私はアイロニー大好き人間であるが、自分の中でアイロニカルな表現だと思って好きな言葉であっても、説明なく会話に投入されると、相手はアイロニーとして認識できない。


国税を払うことが好き!国税を払おう!というアイロニカルな表現が個人的に気に入ってるが(皮肉なので、前提として国税とはなぜ存在せねばならんか、喜んで払っていいものなのかというディスカッションが存在する事を含意している)、道路整備のために国税を払うべきと発言してしまったらそのままの意味としてしか、相手は理解できず、私の事をニューディール政策主義者だと思ってしまうかもしれない。それは不本意である。


また、気を許しすぎていると、相手の話を聞かなくなるとういう点に関しても、後から後悔することが多い。


普段の社会生活では人の話をひたすら聞いて、パラフレーズしてなんとか生きているので、自分の事を語る機会があまりない。



気を許した友人だと、心の中に浮かんだものすべてを話してしまい、かなり支離滅裂なことになる。なので後から考えると、どう考えても自分勝手な発言だったな、相手の気分を害しただろうなと考えてしまう。


その続きとして、会話を盛り上げたいがために、人を下げる笑いを取ろうとしてしまう。そして大体そのジョークは笑えない。


あぁ罪深い。


そういう時はステレオタイプ、偏見、ラベリング、見下しを含んだ事をたくさん言ってしまう…


友人と別れた後、自分は本当にレイシストだなと落ち込む…



各種の人類に対してリスペストフルで生きていきたいのに行動が全く伴っていない…



あぁ…




基本的に僕はかなり自分勝手な人間ではあるが、上記のことを長文ラインで当事者に送ってしまうと、相手に赦しを強要するかのようで、自分勝手さが極まる気がするので、このようにブログにしてみた。




どうだっただろうか?




この方法の方がより自分勝手なんだろうか…




あぁ…メンヘラ感あるな…笑




2017年12月27日水曜日

だめだだめだだめだ

だめだだめだだめだ

マジで死ぬ


マジで書けない


マジで意味わからない


マジではてな


涙が出て部屋から出られない

2017年12月25日月曜日

2017年12月24日日曜日

良いクリスマスを

私ってマジでやな奴かもしれん・・・

”Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world?”  1Crinthians 1:20

私はそれほどまでに、みんなに優しいだろうか?この先の文章は本当に自惚れが過ぎたことだと思うけど、自分のことをまとめるために書いておきたいと思う。あんまり多くの人には読んでほしくない。と言いながらブログに書いているのは不思議すぎる。性悪なのかな。


2017年12月22日金曜日

2017年12月19日火曜日

はいはーい無理です!

ZI・BU・Nが哀れで仕方ない!!(作曲家:募集中)

何もできない、自分に甘々な、自分が最高に哀れ!

哀れすぎて泣ける!


あー自分ってかわいそう〜
(あー幸せ〜)
あー自分ってなんて不幸なんだろう
(あーなんだか落ち着くわ〜)


今日も昨日も、そのまた明日も
いつまでも自分の力が明らかになるのが怖くて手を抜いてる


そもそもやりたいことなんてないし
そもそも書きたい事なんかない


そもそも、そもそも?


あー自分ってかわいそう〜
(あー幸せ〜)
あー自分ってなんて不幸なんだろう
(あーなんだか落ち着くわ〜)


自分が哀れで流す涙ほどカッコ悪いものはない
このぬるま湯に誰か氷水をぶち込んで

2017年12月18日月曜日

銭湯はやっぱいい

銭湯に行った。
京都の銭湯はサウナが無料で入れるところが多い。サウナと水風呂に交互に入るのはやっぱり最高だ。最初の2回くらいは、ただただ熱いし、ただただ冷たい。でも3回目くらいに水風呂からサウナに入った時のあの血管が広がっていく感じがとても良い。そしてその頃から水風呂に入るのも素晴らしく感じ始める。

ああ。フィンランドのサウナが懐かしい。日本のサウナと違って、水蒸気で温めるので、蒸し暑く、湿気で充満している。肌もツヤツヤになる。

そしてサウナを出た後、雪の上を小走りに走って、凍った湖に空いた穴へダイブするあの感じ。タンペレに帰りたい・・・

湖はまじで天然なので、藻?みたいなものが足にまとわりつく。その感じもなかなか良い。泳いでいると、髪の毛が凍ってくる。そろそろサウナに戻ろう。

泳いだ後は肌の周りが引き締まっているからか、サウナを出た時よりも暖かく感じる。
本当だよ!

サウナに入ると、じわーっと血管が開く。サウナの扉をあけた者の責任として、ヒーターにロウリュ(水をかける)。
水蒸気が一気に天井まで上がり、霧雨のように、熱気が上から降りてくる。うーん息を吸うと痛い。頭を垂れる。ヒーターがちろちろとなる。

ビフタ(白樺の枝)なんかがあると最高である。あーあの香り。最高である。

もうそろそろ、疲れて来たなという頃合いでサウナを出て、マッカラ(フィンランドの魚肉ソーセージのような肉のソーセージ)と薄いビールを飲む。ああ天国。

タイツに、風を通さないズボン、厚手の靴下、ヒートテックにセーターをきて、スノーブーツを履いて、コートを着て、帽子をかぶり、手袋をして、さあ帰ろう。

息を吸うと痛いほど冷たい空気が鼻毛を凍らす。これがまた、家に入ると溶けて鼻水みたいになるんだよね。

混沌の中に光る

混沌の中に光が見える

無数に

混沌の中に光る石がない

たった一つ

混沌の中に希望が消える

とおくに

遠くのとおおくの外側に

皮が感じられる


皮はザラザラしてふわふわだ




2017年12月3日日曜日

遣る瀬無し

遣る瀬無いの意味は、デジタル大辞林によると以下のようである。

  1.  思いを晴らすすべがない。せつない。
     施すすべがない。どうしようもない。
     気持ちに余裕がない。

     今の僕の気持ちは全部です。
    ここだけの話、修士論文まだ、0文字なんです。


    まわりが二章分書いた、三章書いた、書ききったなど言っているなかこれである。
    ほんと昔から変わってない。


    遣る瀬無いに戻りますが、遣る瀬がないとはどういう意味だろうか?
    遣るは「行かせる」とか「行く」という意味ですよね。古語的にも現代的にも。乗り物を行かせるという意味もありますよね。
    瀬とは辞書を開くと、川などで徒歩で渡れるところ、渡るための狭い所、転じて時や
    場所の意味とあります。

    なるほど、舟などに乗っていてそれを着ける場所がなく、どうしようもない感じなのでしょうか

    まさに、そんな感じです。どんどん月日は流れて行くのにどこに着岸(着眼)すればいいのかわからない・・・



2017年9月4日月曜日

バンコク、スワンナプーム空港での他社乗り継ぎ 

昨年、中国東方航空からエチオピア航空に乗り継いだことについて書いておきたいと思います。

結論から言うと、問題なく乗り継げます。


中国東方航空は日本から上海経由バンコク行きのチケットしか発券されず、エチオピア航空のチケットはバンコクで発券するよう日本の空港で言われて飛び立ちました。


時間的にタイに入国できないし、ということは荷物も受け取らないので、どうすればよいのかとても不安でした。


スワンナプームの国際線乗り継ぎの表示に従い進むと、手荷物検査のところにやって来ました…こういうことは乗り継ぎの空港でよくあるのですが、本当にここを通っていいのか不安だったので係員に聞くと、わかってないのかわかってるのかよくわからない返答…とりあえず通れとジェスチャーされたので、とりあえず通りました…


通った先はいわゆる搭乗口や免税店が並ぶエリア。さあ、どこで発券するんだ…



うろうろしていると、交差点のような十字路に航空会社カウンターと書いた表示がありました。確かカウンターは二ヵ所くらいに別れており、どちらに目的の航空会社のものがあるかは電子掲示板に表示されています。


で、表示された場所のカウンターに行ったのですが、エチオピア航空の人は居ません…なぜだろう搭乗二時間前きっかりじゃないと来ないのかな…としばらく待ち、二時間前になりましたが未だにオープンしません。さすがに誰かに聞こうと周りを見渡すと、なんと!真後ろにもカウンターがあったのです…まじか…同じエリアに二つの別れたカウンターあるのかよ…


そこではエチオピア人らしき人がチェックインしているところで、その人の後ろに並びました。


自分の番になり、Eチケットとパスポートを提示すると、「これどうする??」みたいな話をカウンターの人がタイ語で始めました…ん?なんか問題が…?担当者がかわり、その担当者が方々に電話や無線をします…なんだなんだ…


預けた荷物をどうやってエチオピア航空の飛行機に載せるのか話しているようでした。「あなたの荷物の新しいタグは搭乗口で私が渡すから忘れないでね!」と言われ搭乗券を受けとりました。


大丈夫かな…と思いつつも、時間あるのでカオマンガイとソムタムを食べておくことにします…美味しかったが高かった…


ちょっと欲が出て、タイティー買ってたら搭乗時間になったので走って搭乗口へ


これ、走らなくて良かったやつやと搭乗口について何となく悟ります。はい、遅延です。


そういえば、荷物のタグは…とそわそわ搭乗口付近に座っていると、チェックインの時のグランドスタッフの方が!新しい荷物のクレームタグを貰い、無事バンコク発アディスアベバ行きの飛行機に乗りました。


これ、一年一ヶ月前の出来事…まだ私がブンナカラとブンナの違いも知らない頃…

2017年9月3日日曜日

夢を見た。

最初は馬の夢。馬にすごく上手く乗ってた。馬に乗りたい欲が最高潮に達してるんだと思う。ホストブラザーに頼めば馬乗れるらしいけど、調査と関係ないから悩むところ…牛を撫でて気をまぎらわす。私ってこんなに動物好きだっけ?


次に見た夢は、女が家の扉を叩いて、開けろと叫んでいる。怖い。よくよく聞くと、食糧を分けろと叫んでいる。あんたが困ってるときインジェラをあげたんだから、今度はそっちが私に恵みなさい!何故か断固として渡さない私。あなたにインジェラをあげる筋合いはない!と返す。扉を叩く音がマックスになったとき、犬の鳴き声で目覚めた。


ばうわう!


起きて外に出ると、家族みんなが起き出しており、騒々しい。どうやら子犬が食糧庫に入ったようだ。どうせ食べ物無いし、明日の朝出そうということになって一同解散。



時計は4:00を指している。



朝、起きてみると、子犬が三びき居た。どこからやって来たのだろう。人間を警戒しているが帰るそぶりがない。三びき固まって寝ている。

2017年8月31日木曜日

一人でいるのは難しい

どうすればいいかわからず、近所を二周した。本当はフォーマルクエスチョンとかの準備がしてあって聞きに行かなきゃいけないのだけど、なんかできなくて、ぶらぶらした。

近所を二周すると同じところを二回通るので、さすがに髪を結うご婦人方に怪訝な目で見られた。なので、一人で落ち着けそうな場所を探すが、見つからない…


村のどこに行っても「ファレンジ!」(外国人)と叫ばれるし、そうでなくても「どこにいくの?」と聞かれる。


無視されたり、じっと無言で見つめられるよりずっとありがたいが、都市的な無関心の心地よさに馴れた自分にはいささか疲れる時がある。そういえば、中高生の時近所の人に妙に過敏になってたなと思い出す。近所のいつも挨拶してくれるおばちゃんに会わないように道を変えたりしてた…今なら挨拶できるけどあの頃はなぜ嫌だったんだろ…


話をエチオピアに戻すと、この辺りでは一人でいるのが難しい。近所の茶屋(シャイベット)にいくと、暇な成人未婚男性(ゴロムサ)に絡まれて面倒だし。かといって森や公園のようなpublicな空地は探してみるとなかなか無い!結局落ち着いたのが家の裏の建設中の建物の軒下だ。

家の裏にいても、家の人からの何で男なのに家にいるんだろうという目線を感じる。まあ、外国人は変だなと思ってて!と心のなかで呟く。



「夕方に家にいるのは良くない」と言われて、家の男達に連れ出されることがよくある。特にすることがあるわけではないので、ビール屋に行ってアルコールフリー穀物ドリンク(ホストファミリーは厳格なプロテスタントだからお酒は飲まない)を二、三時間飲んだり、知り合いのスーク(キオスク)でテレビを見たりするだけなのだが。


ともかく、今日はとても一人で座ってるのによい天気だ。雨上がりの空は高く青く、薄く細やかな鱗雲がたなびき、涼しい風が時折、ふっおっ、と吹く。遠くの低地には積乱雲が見え、今夜の雨を予感させる。


喧嘩もなく、村は静かで、平和である。おっと娘が薪(たきぎ)を拾いに来た、それではごきげんよう。

2017年8月29日火曜日

水浴び

水浴びについて。パンツは諸説ありますがここでは下着を指します。

今回は井戸水(もしくは貯め置き雨水)とたらいを使った水浴びについて書きます。川が近くにある人はそこで体を洗えるからいいですね。


たらいにできるだけ多目の水を汲みます。あ、でも運べるくらいにしておきましょう。たらいを物陰に移動させます。人前でショーのように水を浴びたい人は道の真ん中などに持っていくといいと思います。


僕はいつもバナナの木が密集してる家の前庭で水浴びします。低めのバナナの木はちょうどいい高さで脱いだ服を引っかけられるのです。


乾いたたらいに、大きめの布(バスタオル可)、吸水性のよい布、替えの下着、靴下、水を汲む柄杓、石鹸を詰めます。

裸足にサンダルなどを穿き、乾いたたらいを持ち、先程のたらいの場所にいきます。


体を洗うのによい場所は、水捌けがよい、もしくは地面に傾斜がついている場所です。傾斜がなければ穴を掘ってもいいと思います。


服を脱ぎます。上半身から脱ぎ、順番にバナナの木に挟み込むとよいです。ズボンが一番上に来るようにします。諸説ありますがズボンとは下着の上にはく筒状の衣服のことを指します。


パンツは履いたまま水浴びします。一つのポイントですね。少し体を湿らせないと石鹸がアレしないので、柄杓で適当に湿らせます。



石鹸を身体中に塗りたくります。その後、柄杓の水で流します。右肩など石鹸が残りやすいので、注意して落とします。


一番のコツは、パンツ周辺の洗い方なのですが、よくよく考えたら書けないので、各自試してください。


上半身を吸水性のよい布でさっと拭き、腰に大きな布を巻きます。


速やかにパンツを脱ぎ、足など下半身を吸水性のよい布で拭き、新しいパンツをはきます。ここで一段落です。疲れましたね。


人間は服を着ないと比較的寒さに弱いので、上半身にも服を着させます。ズボンもはきます。この際、ズボンの中の携帯などを落とさないよう気をつけてください。僕は今朝落としました。



ズボンをはいたら、大きな布は不要なので首にでもかけましょう。


そろそろ吸水性の落ちかけてる布をつかい足を拭きます。片足拭き、足をあげたまま靴下を履きます。洗い場から部屋に行くまでの道が砂っぽいので、せっかく洗った足を汚さないよう、ここで靴下を履きます。まあでも好みなんでどっちでもよいです。


荷物を乾いたたらいに回収し、部屋に戻ります。


身体を洗うことができました。毛穴が開いてこの世とは思えないくらい爽快な気分です。


私は彼岸にいるのでしょうか。


それではごきげんよう。

2017年8月24日木曜日

やっぱり雨が好き

今日は久しぶりに朝から雨が降っている、家の増築のため大工さんが来ているが、彼らも軒先に雨宿りしている。私もホストファザーも家のなかで朝のブンナをする。

ブンナとはアムハラ語でコーヒーという意味だけど、この辺りでは食事の事を指すことが多い。ちなみに飲み物はショホラというコーヒーの実の飲み物なのでブンナすら飲んでいない。コーヒーの木から出来たものには変わり無いが…


雨の日が好きなのはなぜだろう。家の中に入らざるを得ず、話をしたり、暇潰しをする時間が好きなのかもしれない。

普段の労働や仕事の手を止め、佇まなければならない状況。

家の中から激しい雨を見る、少しの不安と安心感。

いや、ただ水が好きなのかもしれない。子供の頃は長靴をはいて雨のなかを歩くのが好きだった。

キャンプのとき、雨でびしょびしょになるのも好きだったな。大変だったけど。


大雨が降ると今でも興奮して寝れないことがある。子供みたいだなぁ。



雨が降っている。

2017年8月20日日曜日

フィールドに体が適応してきた?

フィールドに本格的に入って、ほぼほぼ2ヶ月になった。からだや味覚がようやく馴染んできたのかも…と感じる。

首都に飛行機で降り立ったときは、日本にいた時、同様毎日体を洗っていたが、最近は二、三週間洗わなくても体が痒くならなくなった。

下手に高い頻度で水浴びをすると、周りの人の臭いが妙に気になる。自分もあまり水浴びをしないでおくと、そんなに周りの人の臭いは気にならない。あまりにも自分が臭いときにそろそろ水浴びようかなという感じだ。

味覚に関しても、慣れてきたのか、研ぎ澄まされてきたのか、塩加減と上手い不味いがわかるようになってきた。前回はどの料理も、とうもろこしと高菜で構成されていて代わり映えしないなと感じていたが、今は同じ素材でも、違いがわかるようになった。例えば、今日は玉ねぎが二割くらい多いなとか、唐辛子から良く味が出ているな、等々。

先週、街のホテルでパソコン仕事をしながら紅茶を頼んだ。日本なら飲物に砂糖など入れたことなかったが、なにも考えず砂糖を山盛三杯入れていて自分の行動に驚いた。

エチオピアで紅茶というと、煮出した紅茶に飽和状態まで砂糖を溶かした激甘の飲み物を指す。私のすんでいるところは比較的物質的に豊かな、街よりの村なので、コーヒーなどの毎日の飲み物にも毎回大量の砂糖を使う。去年は砂糖を入れないでとリクエストしたりしていたが(そんなことを言うと大体変な顔をされる。砂糖要らないとか正気?みたいな)、今回はリクエストするのも面倒になってしまい、そのまま毎日激甘の飲み物を飲んでいる。

その味に慣れてしまったのか、ホテルで自分で砂糖を調節できるのに、無意識のうちに大量の砂糖を投入していて驚いたのである。

甘くないと紅茶を飲んだ気がしないと思うくらいになっている…

人間は本当に環境に適応力のある生き物だなぁと感心している。

2017年8月18日金曜日

子供の葬式

近所のスーク(日用品が色々と売られているキオスクのようなところ)の息子(3歳くらいか?)が亡くなり、埋葬に参列して来た。

ちょうど私が熱で寝込んでいた時期に病院に行ったりしていたそうだ。病院でもらった薬を家で飲んでいたが、うまく効かなかったのか、そのまま自宅で亡くなったそうだ。


その子供はスークに買い物に行くと、いつも付きまとって来た子供だった。「アッシャーム、アッシャーム、サラームノ、サラームノ」(アリ語とアムハラ語で元気か?)

一応返事はしていたが、鬱陶しく思い、返事しないこともあった。子供への扱いはそんなものである。


ただ、亡くなったと聞くと、やはり驚く。明日から買い物に行ってもつきまとわれないのか・・・と。驚くけどそんなに悲しいとは思えない。人は生まれたら死ぬものだから。我ながら、血も涙も無い奴だ。


葬儀での母親の反応はとても激しかった。泣き(周囲の人々の儀礼的な泣きとは少し違う感じ)、叫び、棺にしがみつく。最終的には親戚の男たちになだめられ、無理やり車の助手席にのり、埋葬場所に向かった。

埋葬場所に向かう、車の後ろを100人以上の参列者(多くは同じ村の人)がついていく。道は人で埋め尽くされ、一時的に通行ができない状態になる。

埋葬場所にたどり着いたが、人だかりで何が行われているのかはわからない。牧師が何か祈りのようなものを唱え、会衆が「アーメン」と答える。

ほどなくして、ホストブラザーに「いくよ」と言われたので、その場を去ることにする。




これはここ十年くらいの悩み(?)なのだが、人の死をそこまで重く捉えることができない。十年前の祖父の死も、五年前の父の死もただそこにある事実として受け止めるだけで特別悲しいとか、喪失感に苛まれるとかいうことは起きなかった。死は突然起きるように思えるが常にそこにあると僕は感じている。生きているとは死んでいることと密接に関わっている。

死に対する特別視のなさは、まあ仕方ないかと諦めているので特には悩んではいないのだが。それで社会的には大丈夫か?と思うことはある。でもエチオピアで何度か葬儀に参加し、儀礼的泣きを目撃すると心の中は別にそれでいいのかなともちょっと思う。


以前、ホストファザーに連れられ遠くの山へ葬儀に行った時、直前まで冗談混じりで話していたホストファザーが、葬儀の家の門を通った途端大声で泣き始めたのである。後に続く妻や息子も同じように続く。門を跨いだその瞬間にである。もちろん門の内側の人には直前まで泣いていないことはわかると思う。悲しくて泣いている、のかもしれないが、門を跨いだ瞬間に泣かなければならないというノーム(規範)を強く感じた。


悲しくても悲しくなくてもとにかく泣くのだ。泣くことが重要なのである。


そこから、僕は死を悲しまなければならないという謎の呪縛から少し自分を客観視できるようになったと思う。死を悲しく思ったりおもわなかったりすることは、社会的にはあんまり重要でないのでは?むしろ泣いたり、弔意を伝えるという「行為」を行うことが重要なのである。


今朝スークの前を通ると、白い幕に囲われたエーフィエヤ(葬儀小屋)が建ってた。あの中で近親者は弔問客を迎え、三日三晩寝ずの番をする。今日も葬儀は続く。