”Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world?” 1Crinthians 1:20
私はそれほどまでに、みんなに優しいだろうか?この先の文章は本当に自惚れが過ぎたことだと思うけど、自分のことをまとめるために書いておきたいと思う。あんまり多くの人には読んでほしくない。と言いながらブログに書いているのは不思議すぎる。性悪なのかな。
優しいという表現は少し違うのかもしれないが、私は多くの人の良い点を見つけ、どんな人に対しても肯定的で、でもあるところで適当に受け流す態度をとっているらしい。先日友人にそのようなことを言われた。その友人は、だから、僕に褒められてもそんなに間に受けないようにしているらしい。
なるほど。
もう一つ、人生の折に触れて思い出す言葉がある。
「あなたは間口が広いように見えて、本当の心の奥には誰も立ち入らせない感じがしますね」
うん。
どちらも言い得て妙だな。後述した方の言葉は数年前まで、「本当の意味で僕のことはみんなわかってくれないんだ・・・」といじけた幼稚園児みたいなことを考えていた。しかしよくよく考えてみると、そんなことは全くない。むしろ、他人は僕の心の奥まで入って来ているのだが、それに他人が気がついていないだけ、のような気がしている。間口のだだっ広い玄関しか無い家なのだ。部屋があると思って、襖を開けると、そこはもう隣の家の塀である。僕はただただ単純で影響されやすい人間なのである。「深さ」なんてない。思慮深くもないし、とってもチャランポランである。他人は僕に深淵があると勘違いしているのではないだろうか??ま、言いすぎると他人様に失礼になるので、このことは一旦脇に置いておこう。(ん?どっちにしろめっちゃ失礼(エラそう)な書き方じゃない?)
私が人間に対して肯定的な感覚があるのは確かだと思う。基本的にそれは純粋な尊敬の念から発しているが、もしかすると、それが少しおかしいのかもしれない。
尊敬の念から発せられる肯定的な感覚とは何か考えてみる。僕の場合はやはり相手が自分よりうまく出来ること、自分と違う能力に強く惹かれる特性があるのだと思う。だから、端的に、自分よりうまく何かしら出来る人のことを、すぐ尊敬して、すごいな、こんな風になりたいなと思ってしまう。
二十数年生きてきて、気がついたことだが、その尊敬するポイントが、他人にとっては当たり前なことであることが多く、相手からすると「バカにされている」と感じることがあるようだ。
ここで真顔になって言っておきたいのだが、僕は「バカにしていない」。本当に尊敬しているのだ・・・
例えば、毎日顔を洗って外出できる人、ついつい外で歌ったりしない人、自分の感情をそのまま外に出さないで愛想良く出来る人、自分が付き合うべき人間とそう出ない人間をちゃんと区別している人。これらの人々をとても尊敬する。邪念なしに本当にこういったことが、できるようになりたい!と思っている。
でもこのことを、言葉にした瞬間、ビミョーな雰囲気になってしまう。「朝ちゃんと顔洗っててすごい!」「愛想笑いできるってステキ!」「友達を選んでるってちゃんとしててえらい!」うーん活字にすると更に暴力的である。自分が無意識のうちに括弧内の文字通りのことを言っていることがあるから、ゾッとする・・・二人きりならまだいいかもしれないが、他の人がいる前で言ったら、明らかに「バカにされた」と思うだろう。ごめんなさい。本当にすみませんでした。
初歩的な(?)特性に感じ入ってしまうことは、やめたほうがいいのだろうか?わからない。これを書いていて、それを口に出すことはあんまり良くないことだと自覚すべきだなと感じてはいる。これはなぜダメっぽいことなんだろう。
もしかすると、僕がしていることは、見えない権力を振りかざしているのかもしれない。つまり、対外的に見れば、顔を朝洗うことはできて当たり前でそのことは僕にすでに備わっていること。それを秘匿して尊敬した「フリ」をするから、ビミョーなことになる… のかしら。
もっとわかりやすく言えば、金持ちのボンボンが趣味で貧乏なカッコをして、「金持ちになりたい」と言っているいるように見えるのかもしれない。本当にやな奴だな。
何だかこの話をすると墓穴を掘る感じにいつもなってしまう。ううん。こんなことを言いたいわけではなかったのに。
やっぱり言葉は不自由だ。どこに答えがあるのだろう。どこに真理があるんだろう。踊りたい。
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