2017年8月18日金曜日

子供の葬式

近所のスーク(日用品が色々と売られているキオスクのようなところ)の息子(3歳くらいか?)が亡くなり、埋葬に参列して来た。

ちょうど私が熱で寝込んでいた時期に病院に行ったりしていたそうだ。病院でもらった薬を家で飲んでいたが、うまく効かなかったのか、そのまま自宅で亡くなったそうだ。


その子供はスークに買い物に行くと、いつも付きまとって来た子供だった。「アッシャーム、アッシャーム、サラームノ、サラームノ」(アリ語とアムハラ語で元気か?)

一応返事はしていたが、鬱陶しく思い、返事しないこともあった。子供への扱いはそんなものである。


ただ、亡くなったと聞くと、やはり驚く。明日から買い物に行ってもつきまとわれないのか・・・と。驚くけどそんなに悲しいとは思えない。人は生まれたら死ぬものだから。我ながら、血も涙も無い奴だ。


葬儀での母親の反応はとても激しかった。泣き(周囲の人々の儀礼的な泣きとは少し違う感じ)、叫び、棺にしがみつく。最終的には親戚の男たちになだめられ、無理やり車の助手席にのり、埋葬場所に向かった。

埋葬場所に向かう、車の後ろを100人以上の参列者(多くは同じ村の人)がついていく。道は人で埋め尽くされ、一時的に通行ができない状態になる。

埋葬場所にたどり着いたが、人だかりで何が行われているのかはわからない。牧師が何か祈りのようなものを唱え、会衆が「アーメン」と答える。

ほどなくして、ホストブラザーに「いくよ」と言われたので、その場を去ることにする。




これはここ十年くらいの悩み(?)なのだが、人の死をそこまで重く捉えることができない。十年前の祖父の死も、五年前の父の死もただそこにある事実として受け止めるだけで特別悲しいとか、喪失感に苛まれるとかいうことは起きなかった。死は突然起きるように思えるが常にそこにあると僕は感じている。生きているとは死んでいることと密接に関わっている。

死に対する特別視のなさは、まあ仕方ないかと諦めているので特には悩んではいないのだが。それで社会的には大丈夫か?と思うことはある。でもエチオピアで何度か葬儀に参加し、儀礼的泣きを目撃すると心の中は別にそれでいいのかなともちょっと思う。


以前、ホストファザーに連れられ遠くの山へ葬儀に行った時、直前まで冗談混じりで話していたホストファザーが、葬儀の家の門を通った途端大声で泣き始めたのである。後に続く妻や息子も同じように続く。門を跨いだその瞬間にである。もちろん門の内側の人には直前まで泣いていないことはわかると思う。悲しくて泣いている、のかもしれないが、門を跨いだ瞬間に泣かなければならないというノーム(規範)を強く感じた。


悲しくても悲しくなくてもとにかく泣くのだ。泣くことが重要なのである。


そこから、僕は死を悲しまなければならないという謎の呪縛から少し自分を客観視できるようになったと思う。死を悲しく思ったりおもわなかったりすることは、社会的にはあんまり重要でないのでは?むしろ泣いたり、弔意を伝えるという「行為」を行うことが重要なのである。


今朝スークの前を通ると、白い幕に囲われたエーフィエヤ(葬儀小屋)が建ってた。あの中で近親者は弔問客を迎え、三日三晩寝ずの番をする。今日も葬儀は続く。

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