2023年12月22日金曜日

それを漏らさせる

不注意で踏んでしまった破片。フラグメント。断片。部分的真実。かつてその一部だったもの。





2023年11月9日木曜日

床に座って作品を見る

今日見た作品はとても繊細な変化が徐々に生成していく映像で、ギャラリー内には誰もいなかったので木製の床に座って見た。


座ってみると、意外と床は柔らかく暖かい。これが石の床であれば長時間座っていることはできなかったであろう。


初めは胡座で座っていたが、だんだんと「体操座り」になって体が固まっている自分に気がついた。そこで、体操座りの自分を解放し、足を前に伸ばしてみた。


足を伸ばすと伸ばした足から映像が流れているようで、なんだか安心した。

2023年11月5日日曜日

水浴びをして5日目

11月1日に行った整体院で、朝の水シャワーをすすめられて継続して5日になった。

薦められたことはすぐにやってしまうのは、私の良い点でもあり危うい点でもある。

最初の日は手足と頭にしか水をかけられなかったが、最近は全身に浴びられるようになってきた。整体の人は3分〜5分浴びると言っていたが、まだそこまでは辿り着いていない。

冷水を浴びると体が逆に温まり、とても頭がはっきりするのはわかってきた。もう少し続けてみよう。


今朝は水を浴びている時に宇多田ヒカルの「PINK BLOOD」の旋律が向こうからやってきた。歌詞のことはあまり覚えていなかったが、改めて聴いてみると、正視しなければいけない内容だった。託宣か。

そして、このアルバム「BAD MODE」の曲順に対する解像度が上がった。そういうことか…


惑星モデル(太陽の傾きで便宜的に24時間に区分する時間)ではない時間の捉え方をすると、世界の輪郭が広がっていくような感覚がある。


今日は仕事をたくさんした。というか、締め切り前に駆け込んだだけなのだが頭がパンクしそうだ。こんなことを何歳まで続けるんだろう。まだまだ修行の身なのかなぁ。


最近会う人会う人に元気がないと思われるので、なんだか申し訳なくなってきた。自分勝手な身体、思想改造に疲れているだけなのに。


今日はそんな私に花束をくれた人がいた。ありがとう。嬉しさで泣きそうになる。私にもちゃんと感情があったのだ。これを少しずつ表に出す練習をしていきたい。

2023年11月4日土曜日

痛みに対して鈍い私

私は痛みに対して鈍い。虫刺されもあまり痒いと感じないし、親知らずも歯医者が驚く段階になるまで、痛みを感じず抜くのが少し遅れた。交通事故にあった時も一週間足らずで普通の生活を送れるほどになってしまった。

肩こりなどで整体に行く時も「なぜこれほどになるまで…」と言われたりもする。これまでは痛みを感じないことは便利だとさえ思っていたが、何かを失っていると最近思い知った。

自分の痛みに鈍感だと、他者の痛みにも鈍感になってしまう。一番身近な自然である体に鈍感だと、もっと大きな自然にも鈍感になってしまう。どんどん言葉や概念が優位な活動になっていってしまう。それは、私にとっては不本意だ。

でもなぜ、痛みに鈍感になってしまったのだろう。子供の頃はちょっとやそっとのことで泣いていたはずなのだ。『体の知性を取り戻す』 という本に少しヒントがありそうだった。


決まり切ったメッセージを実行する。それが人生を送ることだ。そういう考えを疑いもしなくなっている暮らしとは、実のところ頭が思い描くイメージの枠の中に体を追い込むことでしかない。その結果、体はどんどん強張っていく。頭と体のあいだで自分が板挟みになり、やがては緊張の度合いの高まった体として日常を送る。(37−38)

感じている違和をそのまま出すと奇矯な人だと思われるので、できるだけ感じないようにして過ごすことに決めた。センサーを眠らせ、スイッチを切るように。(53)

我慢すればするほど正しいし、努力している証だという倒錯した世界に入っていくと、体の声が聴こえなくなる。(61)


私はおかしな(クイアなと言ってもいいかもしれない)自分を否定されたくない気持ちが強く、その場その場の主流派が発するメッセージをあたかも自分のメッセージかのように思い込み、それに体が拒否反応を示したとしてもそれを感じるセンサーを切ることで体を従えるトレーニングをずっとやってきたように思う。

その結果、悲しみは一年遅れてやってきて、怒りは感じず、痛みに鈍い体になってしまっていた。自分が鈍いだけなら、必ずしも変える必要はないのかもしれない。鈍く何も感じない怠惰な都会人として生を全うするやり方もある。

しかし、それでは人を傷つけてしまう。大切に思う人こそ、近くにいる人こそ、自分の鈍さによって傷つけてしまう。


何かがうまくいかないとき、「だからダメなのだ」「だから向上しなくてはいけない」と思いを新たにするだろう。これはいまの自分を否定するということだ。そのことで確実に自分が見えなくなる。(138)

身体で考えられない自分を変えなくては!と思っていたところで、著者の尹さんは諌めてくる。「〜しなければならない」「〜するべきだ」ではなく、いまの自分の身体に生起していることを見よと。

頑固な考えは一方向に進むことしか念頭になく、転身さえすればどこへでも進めるのだという自由を忘れている。端的に言えば、そこには余裕がないのだ。余裕がないのは楽しくない。思考は遊びがないとうまく転がっていかない。(154-155)


私は比較的柔軟な人間だと思い込んでいたが、最近長年の友人に「あなたは頑固だ」と直球で言われた。私は他者から何かを言われなければ気がつけない、それほどに頑固なのだろう。

こんなことを考えつつ、本日訪れた富士山麓で不思議な人と出会った。彼とエーリッヒフロムの愛について語ったり、パットメセニーのことや、頭ではなく身体から知っていくことの重要性を語り合うことができた。ここしばらく、ざわめいていた心の海に凪の時間がようやく訪れた気がする。体と感覚を開いておけば、適切な場とタイミングに導かれていく。

彼は「エネルギーを循環させるためには、場を捉えよ」と言って去っていった。





引用:尹雄大『体の知性を取り戻す』 

2023年11月3日金曜日

信念と勇気を習練し、自分の言葉を見つけていく

理にかなった信念の根底にあるのは生産性だけである。信念に従って生きるということは、生産的に生きることなのだ。したがって、他人を支配するという意味での力、すなわち権力を信じたり、権力を用いたりすることは、信念とは正反対のことである。現在すでにある力を信じるということはまだ実現されていない可能性の発達を信じないことであり、現在眼に見えるものだけに基づいて未来を予想することだ。

これはproductivityの訳語としての「生産性」だろうか。生産性とは工場で効率的に製品を作るということだけでなく、「創作物を作ることを可能にする能力」とも表現できるはずだ。そう考えると、自分から何かを(外から見てわかるもの)生み出すことが大切であると読める。私は「権力」に縋っていた。それは自分の身体の大きさだったり、まなざしだったり、身体的・思想的特権性が発動する権力である。そのようなものをこれからは手放して軽やかになりたい。そのために今、行動しているのだと思う。


 愛されるには、そして愛するには勇気が必要だ。ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。


この先の文章にこの勇気はムッソリーニのいう「危険を犯して生きよ」のような勇気ではないと続く。それは蛮勇であり、愛の勇気とは異なると。私は蛮勇でまみれていた。思い切ってジャンプするとはまさにその字の通り、身体を宙に投げ出すということだ。しかしそれは向こう見ずなジャンプではなく、信念を持って、着地点を見定めながら飛び立つということだ。


信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るのかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているのかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。

 

「信念と勇気の鍛錬」が足りてないのだと思う。最近自分のずるさを確認したのは、私が電話が嫌いであるということの言い訳である。それは解釈を相手に委ねられないという弱さ、信念のなさからきているとも言える。自分が全力で作り切ったメッセージがあり、それに信念がこもっていれば、電話であろうが、zoomであろうが、対面であろうが不安に思わないはずだ。

しかし、そのような信念がないから、対面だとある種の「権力」を使って相手を説得できると考えるずるい気持ちがあるから、「電話が苦手」などとのたまう。己の信念を持って言葉を紡ぎたい。その上で他者との摩擦があれば、初めて自分の輪郭がはっきりしてくるのだろう。


ある人から、今日言われた言葉

「Yくんもエスノグラフィー書いた方がいいよ。何かを書くということは必ず自分と向き合うということになる。他人の言葉ではなく、自分の言葉を見つけていく作業。その過程で、考えていることや信念を少しずつ外に出していけるようになる。考え抜いて自分だけの言葉を世に出した時、必ず伝わる人がいる。しかし、他人の言葉を寄せ集めて整形しただけではどこにも届かない。小説とも、詩とも異なりエスノグラフィーは他者を書くから責任が生じる。そのような責任からしか生まれない言葉がある」

この身体を変えていくためには自分の言葉で書き始めたい。書くことから始まり、自分に向き合い、軽やかに考えや信念を外に出していく。そうなっていきたい。


人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。

 

参考:エーリッヒフロム『愛するということ 新訳版』p187-190